2008年9月29日月曜日

人の感性

人は皮膚でも感じるし、もっと言えば髪でも爪でも感じる。

もちろん眼を通してきたものにも、耳を通してきたものにも、鼻を通してきたものにも感じることができる。
それらは視覚だの聴覚だの嗅覚だの触覚だのというが他にも味覚や第6感などというものもある。
しかしながら、残念なことにそれらはあまり多く取りざたされなくなっている。

多くのマスメディアの中心は、情報収集能力と情報処理能力に終始し、主に頭で考えしゃべることに重きを置いている。
もともと都市がそのように出来上がっており、その都市で活躍の場を与えられるのが前述の情報収集能力と情報処理能力だからそのこと自体に何の不自然さはない。(都市が不自然なだけだ)
だから、その自然なことをここで荒げる必要もないが、それらが万能の力であると誤解しているのは危ない。

人が感じることができるというのは大きな能力だが、頭で考えること、その多くは言語化していくことだが、その行為が人を感じることから遠ざけている。
ごくごく単純に言えば、ある花を見て「かわいい」といってしまえば感じる自分はその時点で止まる。
言葉にはそのような力がある。

念のために言っておけばこの場合の「かわいい」は花がかわいいのではなく、花を「かわいい」と言うわたしを主張する言葉だ。(その点でも感性からはなはだしく遠い)

花の持つ多くの要素はそのまま身のうちに取り込むことにおいてのみ開花する。

都会ではとても難しいことだが、(しっかり考えていないと取り込み詐欺にかかったりするからね)田舎に行ったときに感じることをそのまま身のうちに入れる訓練をするといいと思う。
そのままというのは「言語化を拒否する」ということだ。
何の言葉にもせず目に入ってくるものは目に入ってくるように、鼻からくる香りはその香りのように…、そういうことをしていると自分がいつの間にかどこかに行ってしまい、どこか違う世界に入ってきたような感じがしてくる。

わたしは屋久島でそんな体験を持った。

感動などというものは、その瞬間に訪れるものではなく違う場所や時間に訪れてくる。
あるときは訪れないこともある。

それでも「かわいい」などという言葉をあなたには毅然として発しないでもらいたい。

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