2007年9月26日水曜日

よかったなあ


王位戦を深浦康市がものにした。
立派なものだ。
九州にタイトルが渡るのは初めてだろうか。
なんにせよ、めでたい。
深浦は「東海の鬼」と恐れられた花村元司の弟子だ。
花村が生きていたらさぞかし喜んだことだろう。
彼の兄弟子にはこの世のどこに出しても恥ずかしくない青年、森下卓がいる。
あの森下システムの森下だ。
関係ないことを書いてしまうほど、わたしもうれしいのだ。

うん、すこし将棋界が変わるかもしれない。
このぶんだと渡辺明が、竜王位を防衛するかもしれない。
とにかく画期的な話だ。

深浦が勝った。
あの羽生善治に。

あなたを愛していた

わたしはだれはばかることなく「マザーコンプレックス」だといっていたが、その言葉に深い依存という意味合いがあるのならば、わたしが「マザーコンプレックス」であるという表現は避けなければならないだろう。
私は彼女を深く愛し、信頼していたが、依存はしていなかった。
もしわれわれの間に依存という言葉が横臥しているとしたらそれは彼女の前にあったのだろう。

わたしの前に一枚の写真がある。
名古屋の東山動物園。
まぶしいほどの光が満ち溢れる砂利の上に、この上ない幸せを手にした母子が映っている。
若い母は、水玉模様のワンピースを羽織り、しっかりと幼児の手を握っている。

その直前までさしていたパラソルはその写真を取った男のもとにあるのだろうか。

悲しいまでに晴れわたったその日、彼女の手は暖かくすこし湿っておりました。
わたしに愛された記憶があるとすれば、その日が最初のことでした。

ラベル:

2007年9月25日火曜日

知らない、と言われたあくる朝

竜王戦の日程を誤って認識していた。(誤認といえばいいのかな)
この哀しい錯誤を訂正させていただきたい。

第1局 
10月16・17日(火・水)
大阪府堺市堺区戒島町4-45-1TEL 072-224-1121 堺市茶室「伸庵」※前夜祭「リーガロイヤルホテル堺」

第2局 
10月31・11月1日(水・木)
三重県伊勢市宇治仲之切町152TEL 0598-22-0001「神宮会館」

第3局 
11月13・14日(火・水)
北海道札幌市中央区大通西8丁目TEL 011-261-0111 「札幌後楽園ホテル」

第4局 
11月21・22日(水・木)
佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙738TEL 0954-42-0210「和多屋別荘」

第5局 
11月28・29日(水・木)
山形県天童市鎌田本町1-1-30TEL 023-654-2211「ほほえみの宿 滝の湯」

第6局 
12月12・13日(水・木)
静岡県伊豆市土肥町土肥284TEL 0558-98-1000 「玉樟園新井」

第7局 
12月19・20日(水・木)
新潟県南魚沼市坂戸山際79TEL 025-772-3470「龍言」

愛した女を闇雲にその後のありようも考えず、捨ててしまったのはわたしだ。
その後にあるこのていたらく。

手練手管で落とした女
無傷で帰してなるものか
二度と癒せぬ傷跡つけて
海の前まで連れて行く

何かひとつに的をしぼるのはいいことなのかもしれない。
何でもできると考える未熟。
たったひとつのこともできないお前。

「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」
と美しき定義をしたのは我が武谷三男だが、
ふと立ち止まると残酷な言葉だ。

わたしには意識的に適用できる客観性がない。

ああ、この手に技術は舞い降りてくれるのだろうか。
ジャック・ヒギンズのように。

らちもないことを綴ってしまった。
許してください。

ラベル:

2007年9月24日月曜日

マルセル、マルセルと何度もピアフは叫んだ

ピアフの「愛の讃歌」を結婚式で歌う愚を話したのは美輪明宏だが、わたしは歌ってもいいと思っていた。
いまは違う。
その変わったわたしの思いを述べておくことが今日の主題だ。

あの歌、つまりは「愛の讃歌」はピアフが恋する男、マルセルに捧げたものだ。
捧げた歌は彼のいない世界に響く。
そのとき、マルセルは飛行機事故でこの世にない。
その意味でもっとも結晶化された「愛の讃歌」だと思う。

ところで、結婚式でこの歌を歌うあなたはそのことを知っていたのだろうか?

そんなの関係ない
そんなの関係ない
そんなの関係ない
オッパピー

これは消えいく運命の秀逸なギャグだが、それをここに出す意味はない。

あえて、ここに「愛の讃歌」を歌うあなたにその意志を問いたい。
あの歌は愛を讃歌しているが、その讃歌は遠く厳しい讃歌だ。
目の前の祝福されるあほカップルとは深く、さらに深く一線を画している。
それでもあほ面をして歌うあなたにいかほどの思いがあるのだろうか。

「愛の讃歌」
この歌はマルセル亡き後、ピアフの書いた詩による。
いまは別の世界にいるマルセルに捧げた歌だ。

そのことを離れてもこの歌は美しい。
マルセル、マルセルと叫ぶピアフの乱暴で無作法で直線でしかないその声は、この歌に瀕死の状態でたどり着いた。
それがこの歌だと知っておいてほしい。

歌に履歴があり、その履歴を裏切って歌うことは罪であるようにいまの私は思うのだ。

ラベル:

2007年9月23日日曜日

アサギマダラはもうすぐ南下


アサギマダラは珍しい渡りチョウ。
ほかに地球レベルでいえばオオカバマダラがいるが、まったく遜色はない。
アサギマダラは貴重な生態をもったチョウだ。
いまから南西諸島へと、台湾へと飛んでいく。
熱帯のごときこの夏といまの残暑、彼らは大丈夫なのだろうか。

その報道もせずに、
さらにはインド洋の海自の給油についての本質的な報道もしないで、毎日毎日麻生だ福田だと選挙の話ばかりテレビはかまびすしい。
そして本日、その自民党総裁選で福田康夫氏が次期総裁に選出された。

で、それがどうしたのだ。
少なくともわれわれに投票権はなかったはずだ。
だとしたらあの毎日の報道はなんだったのだろうか。
視聴率が上がるから流したのか。
話題がなかったからか。
そうではあるまい。
朝青龍はどうした? 長嶋茂雄婦人の自殺はどうした?

この国の政治家はわれわれの思っている以上にしたたかである。
メディア操作で国民なんぞなんとでもなると思っている。
まあ、事実なんとかなる。

すこし前、堀田佳男氏の『大統領のつくりかた』で解き明かされた状態は確かに日本の政治家の意識に入り込んでいる。
だから、何の意味もなく毎日毎日自民党総裁選を流すわけはなく、その裏には企みがあったはずだ。
その企みからいけば、安倍元総裁はもうテレビ映像では流したくないはずだ。
流すとしてもとても薄い印象にするはずだ。
その意識で明日の安倍晋三氏の記者会見を見ていてほしい。
どのようにそれを流したらいいか、何人かでいまメディア対策をしている、いやもう終わったか、こんなとこですかな、あとは粛々とですか、ガはははは、てなもんだあいつらは。

小手先で動くと思うなよといいたいが、ここの国民は小手先でよく動く。
さすがに中村哲氏レベルの人は微動だにしないが、彼ほどの人はほとんどいない。
また、この国の人は彼がどれくらいの人物か理解していない。
長い長い時間をかけてこの国は国民がものを考えられないようにしてきたのだ。
壮大な計画だ。
明治以降だろうといわれるが、そのこと細かな詳細を書いた書物はない。

さて、気になるインド洋での給油だが、あの油、海自は日本の商社などを中間に入れてアメリカから買い付けをしているという。
このことはしっかり調べてくださいよ、と思うが、調べはせんだろうし話題にも上らないのだろう。

アメリカは公共事業で食ってきた。
そのもっとも大きなものが軍需産業だ。
インド洋での給油作業はもっとも儲かる商売なのだ。
テロ特措法!?
あれを対テロ対策と見ては大きなものを見落としてしまう。
あれはアメリカの大事な商売なのである。
事実、日本の給油艦はアメリカの給油艦に給油したことがあるという。
アメリカから買った石油を日本にもって来て、それを日本の給油艦からアメリカの給油艦へ。
何をやっているのだろう。
テロ対策にやっているのです。
なるほどそうですかとうなずいていればいいのか。
しかし、このことの細かな報道はない。
代わりに麻生だ福田だといっている。
その選挙について街頭でインタビューする。
みなさんマスコミに教わったような回答をする。
あれは教わったのかそれともそんな回答だけをピックアップしたのか。
この国はいい。

わたしはいくら残暑厳しい秋だろうが、そんなことは関係ない。
あの美しきアサギマダラの姿をこの初秋に見ていたかったのだ。
アサギマダラは南下しそして北上する。
ただ、一代で南下し北上するのではない。
その遠すぎる距離は親から子へ子から孫へと引き継がれながら乗り越えていくのだ。

自民党総裁の引継ぎとはスケールも美しさも違う。

朝起きていちばん最初に思う。
アサギマダラはもう南下の準備を終えたのだろうか?
このときがわたしの一日で最も美しい時間だ。

ラベル:

2007年9月21日金曜日

正しければ、いい、というわけでもない



本日21日は松田優作の生まれた日だ。
そして、この日はわれわれの首相だった安倍晋三の生まれた日でもある。
優作は1949年9月21日に生まれ、安倍晋三はその5年後に生まれた。
(念のためだが、優作の戸籍上の誕生日は1950年9月21日になっている。ファンにはよく知られた話だ。)
星座占いでいうと優作と安倍は同じわけだ。
おまけに同じ山口県の出身だ。
あげつらえばさらにいくつかの共通点をあげることができるだろう。
しかし、そんなものをいくつ並べ立てようと人に対する何の説得力も生まないだろう。
二人があまりにもかけ離れすぎていることを人は直感的に知っているからだ。
切り取り積み上げられた正しい事実にもとづいたとしても、その共通性に力はない。
正しいだけではだめなのだ。

占いのことを思う。
人は自分の考えているよりずっと多様なものだ。
占い師があなたは積極的だといえばそういう面があるかもしれないと思い、消極的だといえばなるほどそうかと思う。
積極的100%の人もいなければ消極的100%の人もいない。
人は一点が積極的100%、もう一点が消極的100%の線分上に位置している。
ある程度ものを見られる人間は目の前の人間の様子からその内面を推し量ることができる。
それをもってあなたに占い師は言う。
占い師の言に反応するあなたはそのまま占い師の新たな情報だ。
賢い占い師はそのように占いを進行する。
何かが見えているわけではない。
目前のあなたの様子を見ているのだ。

もちろん霊感というものはあるかもしれない。
未来が予見できる可能性はあるだろう。
しかし、彼らのいう5年後に来る仕事の転機や2年後に現われる結婚の可能性が正しい予見だとしてそのことはどれほどあなたの役に立つのだろう。
5年後のいつ、どのような形で仕事の転機は訪れるのか、結婚する相手はどの場所であなたを待っているのだろうか。
ぼんやりとした5年後の仕事の転機や2年後の結婚の可能性は何をあなたに教えてくれているのか。
あなたのなかの問題に対して占い師の情報は、それが正しい情報だとして何をしてくれるのだろうか。
もし、あなたのなかの問題との折り合いのつけかたがあなたが思い煩う胸中の核であるならば、そのために必要なものは占い師の手にはない。
あなたの手にある。
では、なぜあなたは占い師のもとに、友達のもとに、先輩のもとに行く。
淋しいからだ。
淋しいから彼らのもとに向かう。
しかし彼らのもとにあなたの真に求める答はない。
彼らの持っているものの多くは社会常識に支えられた正しい答だ。
それは果たしてあなたが必要としたものだろうか。
あなたが真剣に何かを求める人ならば人であるほどあなたの求める答にその種の正しさは必要ない。
「正しければ、いい、というわけでもない」とはそういうことだ。
まあ、どちらにしても答はあなたの内にあって外にはない。
いや違うか。
内にも外にも答はあるがどちらにしても選ぶのはあなたで、その選ぶ主体であるあなた自身の場所だけは他人に明け渡すなということか。

ところで預言者というのは以上の話とは違う。
ブラジルのジュセリーノがその最たる存在だろうが、彼によると2008年9月13日にアジアに大地震が発生するらしい。
これは、正しい予知夢(彼の場合は夢を見るのだ。)でないほうがいい。
ここでもまた「正しければ、いい、というわけでもない」のだ。

ラベル:

2007年9月20日木曜日

佐藤康光の輝き


第20期竜王戦挑戦者決定戦第三局を佐藤二冠が制した。
第二局における木村一基のえげつない差し回しを見たときには、あるいはと思ったが、やはり佐藤康光の登場となった。

佐藤の今回の挑戦は昨年に続くものだ。
昨年のフルセットは恐ろしいほどのたたき合いだったが、紙一重で渡辺明が防衛した。
そのときはたくましい渡辺の成長を目の当たりにしたのだが、今年は厳しいだろう。
渡辺竜王には納得のいく将棋を指してもらいたいものだ。

佐藤の前には羽生がいて彼はこの男に苦汁を嘗めさせ続けている。
それにもかかわらず、佐藤は何度となく立ち上がり続けている。
しかも昨今はとんでもない筋の攻めを将棋ファンに見せてくれてもいる。
佐藤はその棋風においてももっとも挑戦的な棋士だろう。

その佐藤、今回はどのように戦うのだろうか。
将棋とは恐ろしい競技でどちらかが勝ちどちらかが負ける。
その結果は決定的であり、絶望的である。
だからこそ棋士は将棋をその結果ではなく、二人の対戦者の作品と見る。
いま、佐藤の胸中には何が飛来しているのであろうか。
ぞくぞくする興奮を覚える。

現時点で将棋界を牛耳っているのは羽生世代で、その一角に穴を開けたのが渡辺明というわけだ。
一点突破全面展開は 社青同解放派のスローガンだが、渡辺以外の若手は彼の一点突破を生かしきれていない。
山崎隆之七段、阿久津主税五段、君たちのことを言っているのだよ。
羽生世代、つまりは羽生善治三冠、森内俊之名人、佐藤康光二冠、郷田真隆九段の壁はそそり立っている。
今度の竜王戦は世代抗争の意味でも大きな戦いとなるだろう。

竜王戦は10月10日、サンフランシスコで第一局が始まる。

1秒に1億と3手読むと言われる佐藤。
あの奥歯をきりきりさせながら読みを入れる佐藤の顔が目に浮かぶようだ。

ラベル:

2007年9月19日水曜日

罪なき寓話

愛を愛と呼べない自分にひとつだけ言い聞かせておきたいことがある。
そんな自身への孤独な思いが、オレのなかにある。

愛が愛として、ただ愛だけで、だれの力も借りずに、
その場にスックリと立つためには何が必要なのだろうか。

すこし前、美しい女をこの手にしていた。
美しいだけがとりえのその女は自分の美しさが武器だと理解した。
その武器の脆弱さも知らずに。
やがて女の前に例に違わぬあほなやくざの親分が登場する。
彼女の言によると以下のようになる。

俺の女になれ。
マンションを買い与える。
あと、毎月20万だ、それでいいだろうが。

女は迷った。
迷ったところが可愛いが、その可愛さを知るものはオレ以外にはいない。
女はオレに言う。
あなただったら、毎月の20万だけでいい。
あなたの女にして。

念のために言っておく。
これからさきは茶番だ。
茶番である哀しき現実の話だ。

女の申し出をオレは断った。
そうだろう。
オレは誰かをそこまでは愛しはしない。
美しき形象をもつおまえにも愛は生まれない。
この話の核心は愛のないオレにあるのだろうか。
それとも東京という街にあるのだろうか。

女の携帯につながらなくなったのは、その数日あとだ。

いまはどうしているのだろう。

女への思いのないオレは、まとわりつく女の指だけを覚えている。
大連から来た美しき化生。
オレがそばにいればシアワセにできたのだろうか。
ふとそんなことも思うが、すべてはあわい水泡だ。
とどまることはない。

ラベル:

考えるということ


敬愛する人ということになると、鶴見俊輔、塩沢由典、城戸朱理の三人になるだろうか。
世話になった人は多くいるが、敬愛という言葉を冠するとすればこの三人だろう。
星野芳樹というはずすことの出来ない人がいるが、ここでは外れてもらうことにしよう。
星野さんはこの三人とはあまりにも異色だ。
ついでに言えば、
鶴見さんは星野さんのことを高く評価されていたが、一緒に会食するのはちょっときついかなという印象を持っておられたようだ。
というくらいに星野さんは彼らとは毛色が違う。

さて、三人に話を戻すが、わたしはどの人からも多くのことを教わった。
具体的に何かについて教わったことも多いが、なにより考える姿勢を教わった。

何かを考察するとはどういうことか、そのことを知らないで闇雲に考えても得るものは少ない。
考えるには方法論が必要なのだ。
そして、その方法は狭く厳しい。
その厳密性がなければ考察は確かなものへと変貌していかない。


どの人もあいまいな言葉の使い方を嫌った。
あいまいな言葉の使用はその人の考察力のなさを示す。
しっかりと考えることのできる人は緻密な言葉の使用法をもっているものだ。

詳しくは彼らの著作に接してみればわかることだが、
とりわけ塩沢さんの「近代経済学の反省」の序文は美しい。
そこで展開する「認識論的障害」についての言及は考えるということはどういうことかをはっきりと示してくれる。

まあ、誰しもがものを考える必要はないのだが、ものを考えたい人間はせめて「認識論的障害」は知悉していなくてはならないだろう。

堅い話になってしまったが、ふと三人のことを思ったものだから書いておくことにした。
そういえば最近上梓された「アドルノ伝」を読むとアドルノが知人宅でグレタ・ガルボに会うシーンが出てくる。
そのときのアドルノの感想はこうだ。
「偉大な知識人ではないにせよ、感じがよくて美しい。」
つまり、偉大な知識人になるのも大変だが、感じがよくて美しくなるのもとても大変だということだ。
それがグレタ・ガルボ級となればなおさらのことだ。

ラベル:

Loveless Love


昨夜は昨夜とて神保町「浅野屋」で我がいとしき男と杯を交わすことになったのだ。
そういう夜もある。

それは映画「エディット・ピアフ」の帰り道だった。
「エディット・ピアフ」はなかなかの映画だった。
なにより作成者が映画が何ものであるかよくご存知だった。
このところ足繁く試写会に通っているわたしはこの映画ですこしほっとした。
ちゃんと作る人もいるのだ。

映画の話は別の回に移すとして、わたしの酔ってしまったその後をすこし書いておく。

いつものようにしこたま酒をわが身に放り込んだわたしは、
悪態つき放題の新宿の女の元に向かったのだった。
新宿の女とは何ものか。
彼女はわたしの気散じの結晶である。
いまや重荷になってしまったが。
強い思いが化生を生み出すことがある。
その一例と考えていただければいい。
化生は大事にするものである。
もっとも化生の心根にもよるが。

告白するがわたしは自堕落な男だ。
さわやかな風さえ許さぬどぶ川の住人だ。
そのわたしにそれでもいいと寄り添ったものがいる。
それがたとえわたしの持っている小金のためだとしても、わたしはそのものを捨てがたい。
わたしに夢があるごとく、我が思いの性癖も夢見るところがある。
それは人を愛することとはすこしずれている。

これも別の話として起こすが、才能豊かな我が妻には人を愛する力がない。
人を愛するとは与件ではない、それは正しく能力だ。
そのような話をこのまえ書いたが、それは本当だ。
人を愛せない妻がもつ彼女の能力をわたしは深く愛するが、妻自身を愛するのは難しい。
今日も今日とてわたしの口ずさむ「水に流して」にうるさいとのたまわった。
のたまわったその妻に限りない罵詈雑言を浴びせたのは言うまでもないが、その核心はただひとつ。
愛してもいない人間といっしょにいる愚をあなたに知ってほしい。
人は愛してもいない人間と時空間をともにしてはならない。
もしそれが可能なら、愛する人間とともに生きていけばいい。
奇跡のような話だが。
とにかく、いやな人間といっしょに生活するものではない。
こんな単純なことさえわからない有能な妻にわたしはときとして眩暈がする。

愛する能力のない人間は存在そのものが、悲喜劇だ。
そういうことがある。
生きているなかには。

ラベル:

2007年9月18日火曜日

ジョージさん、ジルベルトスタイルでくれないか


吉祥寺の老舗「GEORGE'S BAR」のジョージさんが亡くなった。
今年の8月だったそうだ。

そう教えたのはエディーズバーの藤田くんだった。
昨夜のことだ。
死んでもいい奴は山ほどいるのに肝心な人から死んでいく。
ほんにこの世はままならぬ。
軽口でもたたかねばやっていられない。

林の出が遅くなったその日、エディーズバーでわたしを待っていたのは藤田くんだった。
ブラッディマリー、今井清の感じでオールドタイプのマティーニ(この一品、そりゃあ丁寧にオーダーしました、馬鹿よばわりされぬために)、ドライマティーニと飲み進んだわたしは次にジルベルトスタイルのマティーニを注文したのでした。

ジルベルトとはあのロンドンデュークホテルのバーテンダーのことだ。
彼が、サンデー・サン主催のマティーニコンテストで作ったそのマティーニはずいぶんと評判を呼んだ。
そんなことも知らない、バーテンダーが巷にはごろごろしている。
バーテンダーはこだわりだけが命なのにそのこだわりがないのだ。
死んだほうがいい。

言い方がきついだろうか。
ならば言い換えよう。
バーテンダーとして生きている資格はない。

ジルベルトスタイルをわたしに教えたのはジョージさんだった。
「ジルベルトはもうつくらないことにしているんですがね」とジョージさんはすこし笑った。
足をとられて怪我をするお客さんが何人かいたというのだ。
写真はジルベルトスタイルの仕上げにオレンジピールを吹きかけるジョージさんだ。

わたしはジョージさん以外からこのスタイルのマティーニを飲むことに抵抗があったので藤田君の勧めるもうひとつのジルベルトスタイルを飲むことにした。
つまりはあれ、アンゴスチュラビターを垂らすタイプのほうだ。
しかしその味はスタンダードなジルベルトスタイルが勝るだろう。
嗜好だから個人差もあるが、バーテンダーの技量さえ確かならそういうことになる。

ジルベルトを飲んでいるときにうるさい客が入って来たのでわたしはそのまま店を出た。
この場合の「うるさい」はカクテルにうるさいではない。
ただ単にどうでもいい事をべらべらしゃべる輩のことだ。
何も考えずに生きてきたのだと思う。
まあ、それでもわたしの前にいなければ問題はない。
だから、去るわけだ。

外に出て、またジョージさんを思い出した。
そして冒頭のタイトルを呟いてみた。

九月も半ばをすぎた蒸し暑い吉祥寺の夜の話だ。

ラベル:

マティーニへの思い


ハイロウズの「ミサイルマン」もなかなかだが、平山夢明の「ミサイルマン」もなかなかだ。
めちゃくちゃのなかにも形式美は確かにある、といったところか。

昨夜は久しぶりに「エディーズバー」を訪れた。
「エディーズバー」は吉祥寺に土屋が開いたバーだが、
その土屋はいまは銀座で店をやっているので彼のカクテルをもうここで飲むことはできない。
土屋のカクテルは最高だった。
おそらく日本きってのバーテンダーといってもいい過ぎではないだろう。
彼にわたしは多くのことを教わった。
毛利さんのレシピで作ってくれといったわたしをたしなめたのも土屋だった。
ここで言う毛利さんとはもちろん毛利隆雄のことで、名高い毛利マティーニの生みの親だ。
ここでつまらんことを書けば、わたしは「毛利マティーニ」という呼び方が好きではない。
わたしがそれを呼ぶときはいつも「毛利さんのマティーニ」だ。
あとで語る「ジルベルトマティーニ」にならばわたしは「ジルベルトスタイルでマティーニを」と頼むことにしている。
どちらも趣味の話だ。
大きな理由はない。

さて、キンキンに冷やしたブードルズとドラン・シャンベリー・ドライが必要な毛利さんのマティーニだが、
本当のことを言うともっとも必要なものは繊細かつ緻密な計算の上に立つ100回を超えるステアーだ。
そのステアーのためにはやはり毛利隆雄の指と前腕とが必要になるのかもしれない。

「毛利さんのレシピで」という発言はこいつわかっちゃいねえなと即断させるのに十分な不用意さを持っていたわけだ。
蛇足だが、ブードルズを冷凍庫で冷やす発想もまた簡単であるがゆえに特筆すべき毛利隆雄の発見であった。

ここで話はもどる。
土屋のいない「エディーズバー」のことだが、いまは林のいる「エディーズバー」となっている。

ラベル:

2007年9月17日月曜日

風に恋するハンググライダー


さわやかな風にたとえられた男がいる。
わたしの若き友人である。

その風は…
そのさわやかな風はいまは吹いていない。
彼自身としても彼の周りにも。

さわやかな風もまたその通り道を必要とする。
さすがに薄汚れたどぶ川の上を吹くわけにはいかないし、
また薄汚れたどぶ川の上を吹く風をさわやかな風と称してはならない。
たとえ、それがさわやかな風であったとしてもだ。

さわやかな風がさわやかに吹くためには、吹く意志だけでは不十分なのだ。
せつない話だ。

吹く意志だけで十分だと、その若き友人の肩をたたきたくなることもある。

本日、西荻の勤労福祉会館で「高井戸ちゃんぷらーず」の演奏がある。
「高井戸ちゃんぷらーず」ってなに? と不思議に思われるだろうか。
それは、風になろうとしている数人のグループだ。
風になろうとして、風になれなくて、それでもなお風になろうとしているグループだ。

穢れないでいてほしいというのはわたしのささやかなそのグループに対する想いだが、
人は生きていくだけで穢れれていく。
バンドも人の作るものであれば、時がたつにつれて穢れていく。
それをさわやかなままに保つためにはある意志とそれに従う努力が要る。

なんのことだ?

残念ながら、それは自分自身で考えるしかない。
おまえの生を全うするのは、ほかならぬおまえであってわたしではないからだ。
ただひとつささやくように教えるならば、その努力の中枢にあるのは距離への想いだ。
距離こそがさわやかさにもっとも親密に寄り添うものだ。

若き友人は、社会との距離をとりそこねた。
距離をとり損ねたかれはかれの職場で風としてあることができなかった。

ハンググライダーが滑空するためには上昇気流を必要とする。
あるとき、フランシス・ロガロだったわたしは彼の風で酒場のなかを舞ったことがある。

高井戸ちゃんぷらーずは勤労福祉会館でわたしを舞わせてくれるのだろうか?

ラベル:

2007年9月16日日曜日

作品としての眼鏡


一人の女に恋するよりは一人の女の可能性に恋していたい。
女は裏切るが、女の可能性はそれを信じる限り裏切ることはない。
それに己の可能性を信じるよりはあやふやさがなく数段心地よいではないか。

わたしは美しいものに惹かれることの少ない男で、
その意味では芸術性の低い男ではなかろうかと思うことがある。
しかし、美しさもさまざまな多様性があるはずで
いつの間にかわたしが美しさを限定し、見ることを知らぬ間に遠ざけているのかもしれない。

世田谷区桜ヶ丘に「山下眼鏡工房」というアトリエがある。
ここのヤマシタリョウさんは、その筋では知られた職人である。
江戸の町人文化は「江戸金枠」と呼ばれる眼鏡作りを生み出したが、
ヤマシタは志高く、衰退してしまったその伝統をいまもなお旺盛に生み出し続けている。

どうせ深酒での不注意からだろうが、長年使っているメガネが二箇所も小さく欠けてしまっている。
先だってからそんなことが気になってしかたがない。
そのキズを見ながらヤマシタさんの作品を思い、
次は彼の作品を買おうかと昨日あたりから考え始めている。

ラベル:

2007年9月15日土曜日

夢を見る

夢を見ることは多いほうだろう。
この場合の夢は夜眠ったときに見るほうである。
わたしはフランス人形ではない。

わたしの見る夢でおなじみなのは、
夢の中のわたしが大学生か社会人かはわからないのだが、
あるレポートの課題に対して作業をしているのだ。
しかし、わたしの立てた構想が大きすぎるため期日までになんともならないといった夢だ。

あれこれ悩みながら作業するのだが、
どうしてもこれは間に合わない。
絶望的な気分のときに目が覚める。

目が覚めたわたしは、ああ、あれは夢だったのかと思うのだが、
安堵感というものがわいてこない。
夢だったんだ、ああよかったではないのだ。
覚めたあともまだ夢と同じ気分なのだ。

夢の中と現実の状況が大きくは違わないらしい。

ところで、現実のなかでわたしが取り組んでいる作業とはなんだろう。
期日に間に合わないほどの大きな構想は何に対して立てているのだろう。

こういう問題を立てたほうがいいのかもしれない。

同じような夢をまた今日の明け方見て、目が覚めた。
覚めた後もまだ夢の気分をひきずっている。

ラベル:

2007年9月12日水曜日

すき焼き男の悲劇


久々にテニスを始めたものだから、手先でボールを扱おうとしてしまう。
そういう猪口才なまねをするとひじに負担がかかるもので
ご多分に漏れず、テニスエルボーと相成った。
「すき焼き男の悲劇」という魅惑的なタイトルを思いついたのだが、
しばらくは完成しないかもしれない。
これは困る。
楽しみがなくなるではないか。
などと思案投げ首である。

上戸の顔の小さな傷のことを書こうと思ったが、あとまわしにする。
わたしはそのキズを「上戸の顔の小さな星」と呼び、それを上戸に関する小論のタイトルにと考えている。
すべては中森明夫との話がついてからだ。
さらに、わたしが上戸を個人的に贔屓なのはすべてその「小さな星」のせいだということを付け加えて、この話題を去りたい。

上戸のことを思うと胸が痛いぜ。


さて、酒で痛みを忘れさせたひじを使い、キーボードを打とうではないか。

人は人を愛するようにできていないのだよ、
と言ったのはわたしだ。

なかなかの言葉だが、うそー、信じられない、と叫ぶあなたがいるだろう。
それは、あなたの愛する能力が乏しいからだ。
久間じゃないが、このあたりのことは、しょうがない。

そういえば、安倍が止めたね。
ストレスを感じない仕事だと考えていたのかね。
恥さらしが。

人が与件として自分のうちに持ったのは、愛されたいという欲望だ。
このことの言及は避ける。(R.D.レインを読んでみればいい。信頼できるひとだ。)

愛することを人は学ぶ。
学ぶことによって愛することを知る。
したがって、あなたとわたしの人に対する愛し方は違う。
愛する能力のない奴に、
ちゃんと愛してほしいなどと、ゆめゆめ思うな。
愛するには能力が要る。

そして、残念なことにさらにその先にもうひとつの不幸が待ち受けている。

ある日、すき焼き男は、愛する女とすき焼きをいっしょに食べようとて
すき焼きの準備万端整えて、
愛する女のドアの前に立った。
女はいなかった。
仕方なしにドアの前に立ち続けるすき焼き男の前に女が現れたのはもう2時間もたとうかというころ。
すき焼き男は女が感激してくれるだろうと思っていた。
挨拶代わりに何か言おうとしたすき焼き男に、女は言下に言い放った。

ここにずっと立ってたの。
ばっかじゃないの。
周りの人に何思われるかわかんないんだからね。
ほんと、ばっかじゃないの、早く帰って…、早く帰ってよ。
ばか。
二度とこんなまねしないでよ。

無残にも、愛はかように伝わりにくい。

せっかく得た愛する能力もそれほどの威力は発揮しないのだ。
それがどれほど真摯な愛であっても他者へ無条件に伝わることはない。
他者がそれを受け入れるのは、その相手があなたを好きなときだけなのです。

かくして、すき焼き男は退散の憂き目に合うのだが、
愛を届けるのはかように至難の業なのである。
愛する能力、愛を届けるには、いくつかの課題を持ちながら、
すき焼き男の明日は続いていくのです。

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2007年9月10日月曜日

上戸彩(システムに取り残されて)



昨夜から二夜連続で「輪違屋糸里」というドラマをやっているが、
これがなかなかよろしい。

浅田次郎原作のこのドラマは新撰組を扱ったもので
浅田にとっては新撰組ということでは「壬生義士伝」の次ということになるだろうが、そんなことはいい。
このドラマが、というより主役を演じる上戸がいいのだから。

その作品がいいのと役者がいいのとは違う。
さらに、この場合、上戸がいい、というのはさらに違う。
なぜなら、上戸はわたしに贔屓されているからだ。
このようなことを書くというのは一般的には恥ずかしいことなのだが、
ここはブログであるので、ひとりごちるわけだ。
それでも恥ずかしいのだが、いいだろう。
練習だ。

上戸はアイドル女優(この用語はしっかりと定義されてはいないようだ)
というジャンルに入るタレントである。
でもって、かわいい。
贔屓しているからそう見えるわけだ。

だが、ファンではないので、この場合のかわいさは、単なるかわいさとはすこし違う。
言ってみれば、関係のうまくいっている我が娘がかわいいようなものだ。
したがって、造形的に劣っていてもかわいさに大きな影響はない。
上戸はかわいいね、というときの意味は、上戸がいると楽しいねというほどの意味だ。

ところで、このアイドル女優の始まりだが、薬師丸ひろ子(1964・6・9生まれ)くらいからかな、と思っている。
大きな線としてたどれば、次が原田知世(1967・11・28)となるだろう。
で、それほど詳しくないので、だいたいのところを語る。

繰り返すが、アイドル女優の定義はおそらくなされていない。
私見では、観客が映画ではなく、彼女を見にいこうという意識になったとき、彼女がアイドル女優となる。
そして、このアイドル女優の女優としての力はあなどれない。
それは、いまもっとも期待される二人、
「蒼井優(1985・8・17)」「宮崎あおい(1985・11・30)」
を並べてみればいいだろう。
わたしとしては、蒼井優に可能性を感じるが、その話はここではしない。
ただ、ここで蒼井がいいというときの語りは恥ずかしいものではないし、まっとうな議論として展開できる。
なぜなら蒼井を女優として評価しているからである。
上戸とは違う。

ここで、先のアイドル女優とは何かに注意してほしい。
アイドル女優は本人がなるのではない。
アイドル女優はあくまでも観客が決めるのである。
うがった人間は違うというかもしれない。
仕組んだ人間が観客をそうやって洗脳するのだろうが、と思うかもしれない。
そう思って当然なのだが、いまのところ映画屋たちは映画を作ろうとしていて、
映画を撮るとき、アイドル女優にフォーカスを合わしていない。
したがって、彼らが意識してアイドル女優を供給しているのではないのだ。
いまのところは。(長澤まさみがはやその領域に入ったか?)
もちろん、いまの段階で何人かはアイドル女優の存在が大きな意味を持つことに気づき始めている。

だから、わたしは思うのである。
上戸、早く引退したほうがいい。
「フラガール」の蒼井に「あずみ」のおまえが勝てるわけがない。
歌は、さらに無理だ、などと。
この場合も演技力のなさや歌唱力のなさは、「上戸、かわいい」のわたしの気持ちになんら影響を及ぼさない。
なにしろ、わたしは上戸をえこ贔屓しているのだから。

その、上戸は早く引退したほうがいいと思っていた私が「ほぉー」と思ったのが、昨夜の「輪違屋糸里」。
驚いた。
これだけ、演技できるのかと。
まあ、いろいろ文句はあろうが、上戸としては上出来。
おそらく、役どころがみごとに彼女のイメージに合ったのだろう。
他の役ならどうか?
考える価値はありそうだ。
わたしなら、すこし考えてみたいところだ。
それでも限られた役しかできない上戸は、蒼井優や宮崎あおいに対抗するのはやはり難しいのだろうが、
ここ2,3年はがんばれるかもしれない。
引退は、それからでもいいか。

上戸彩、1985・9・14生まれ。
ちょうど同じ年に蒼井優と宮崎あおいの間に生まれた。
なにやら因果めく。

ま、とにかく、今夜は早く帰る。
早く帰って「輪違屋糸里」後半の上戸を見ることにする。
なにしろわたしの贔屓の上戸がでるのだから。

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2007年9月8日土曜日

華厳の滝




以下のような報道を見た。
ポイントだけ述べる。

華厳の滝が台風のもたらした大雨の影響で豪快な姿を見せています。
滝の水源である中禅寺湖の水位は増し、8日の滝の水量は通常の20倍以上にもなっている。
この大放水はあと数日、続くということです。

ということだ。
ご存知のように華厳の滝は、日本三大瀑布のひとつであるが、
わたしはいまだ接見したことがない。
で、この機会にひとつ行ってみようかと思っている。

華厳の滝を間近で観覧するようになったのは、それほど昔のことではない。
明治33年のことなのだが、その3年後に投身自殺をはかったのが藤村操だ。

堅い岩盤をくり抜いたエレベーターがある現在では
その頃の面影とてないだろうが、
いまでも1月から2月にかけて滝は凍り、青き凍滝となるのだろうし、
6月にはイワツバメが滝周辺を飛び回っているのだろう。
わずかに何かを感じるかもしれない。

その自殺前に記した藤村操の「巌頭之感」を読むと古色蒼然ではあるが、
いかに古びてしまおうともその中にはあくまでもまっすぐな思いがある。
それは巧拙を論じる対象ではない。

藤村操が「巌頭之感」を傍らのミズナラの木に記したのは明治36年5月22日のことである。


悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。
萬有の真相は唯一言にして悉す、日く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。


藤村操、享年16歳。

漱石が、
予習してこなかった彼を叱責したのは
その直前だった。

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2007年9月6日木曜日

和合亮一の詩の朗読あるいは「THA BLUE HERB」の雨ニモ負ケズ


世界32カ国から42人の招待詩人と中国国内から300人以上の詩人が参加した「青海湖国際詩祭」の最終日、
つまり今年の8月10日のことだが、
夕食後、西湖ホテルの庭で朗読会が始まった。

この朗読会、テレビ放送もされるとあって、
ドレスアップしたプロの司会者が司会をつとめるは、
開会とともに花火が上がるは、
サーチライトが夜空に走るは、という派手な演出だった。

そこへ日本から出席していた詩人、和合亮一が参加した。
彼は世界の詩人たちに混じって、2番目に『地球頭脳詩篇』から「ハイヤ ハイヤ」を朗読した。

これが、たいへんな反響だった。

会場は喝采の嵐になり、席に戻った和合氏を追って、テレビカメラはやってくる、
サインを求めに女性が殺到するといった騒ぎ。

会場に日本語を理解する人間は、数人しかいなかったはずだが、
意味が通じなくても、優れた朗読は、普遍的な価値を持つということなのだろうか。

翌日にも青海省の関係者が、
「私は日本語の詩のリズムが好きだ。
聞いていると、力づけられる。
あなたの朗読は、たいへん素晴らしかった」
と和合氏に英語で話しかけ、
バスのガイドまで、
和合氏の朗読に興奮し、夕べは眠れなかったと言い出す始末。

ところで、札幌の「THA BLUE HERB」というバンドをご存知か?

日本語ラップの歴史において特筆されるべきバンドとして存在している。
このバンドのMCがイル・ボスティーノなのだが、 
彼の歌詞が高い評価を受けている。

リリックスのセンテンスの中に複雑に隠しこまれ現われる韻がある。
ある場合は、センテンスごと韻を踏んでいることもある。
巧みといっていいだろうラップを聴かせるMCである。
直接的に韻を意識させないため、ポエトリーリーディングと解釈されがちだが、
ラップ聞きたちは断じて違うという。

これが根性の入ったラップ聞きたちに受けている。
You Tubeでものぞいてみたらよくわかるはずだ。

和合氏の中国での幸福な出来事を知って、ふと「THA BLUE HERB」が浮かんだ。
ちなみにそのとき和合氏が朗読した「ハイヤ ハイヤ」は以下のようなものである。
(ついでに言っておけば、和合氏は積極的に詩の朗読をする詩人だ。)


「ハイヤ ハイヤ」      和合亮一


きみが一心に翻訳をやっていたら海が消えて
きみが爪を切っていたら梨の畑が街になって
戦車の通り過ぎた跡がきみの腿の傷になって
最後の夜行列車の運転手に手紙を書いて不明
                    ハイヤハイヤ
旅の支度なんか 挨拶なんか いらないんだ
言い捨てて きみがきみを 出発した不思議
自分という事実を脱出してしまったので大変
                    ハイヤハイヤ
疑問が靴を履く 踊り出す 僕も行こうかな
昼にハーレーダビッドソンになった夢を見た
三十六色の森林からは暴れ太鼓 まず捕える
きみが乗り捨てて野でいななく駿馬をハイヤ 
                   ハイヤハイヤ
青空から落ちてくるものは 青空でしかない
道にあるものは 道でしかない 鷹は鷹だし
転がる岩はやはり岩だな 輝き狂うよ砂も砂
きみの足跡だけが きみではない 僕は追う 
                   ハイヤハイヤ
かじりかけのパンをナップサックに押し込め
行く先々できみの消息を知り 謎は泣き笑う
遙かな通りの先できみは待っていた 毅然と
きみは鳥 きみは麦 きみは太陽 きみは風 

初出は「朝日新聞」04年10月12日で和合氏はこれを「地球頭脳詩篇」を編むときの2番バッターに抜てきする。
この詩集は、日比野克彦の壮丁によるものでなかなかに素敵な詩集である。
和合氏は05年10月25日に出版されたこの詩集で晩翠賞を受賞することになる。

読んでわかるようにあらかじめ朗読を想定したような作品である。
しかも、現代詩として十分にすぐれている。
意味を追いかけなくても身体に染み入ってくる仕掛けになっている。

もちろん意味をたどってもいいのだが。(日本語への反逆の香りがするこの詩は、
 すんなりと意味をたどることができないようにもなっている。)

いま、もう一度読み返してみると、なるほど朗読として受けるかもしれない。
韻のように踏まれる「ハイヤハイヤ」は夕食後の西湖ホテルの庭でも心地よかったろう。
最後の着地を和合氏がどのように読んだか想像までできそうである。

いわゆる社会が守らねばならない日常を遠ざけようとしたこの詩には
日本語の意味がわかることの重要さが軽減されているのだろう。
意味以外の伝わるもののもたらしたもの。
それを朗読後の観客たちの反応に見たいと思う。

一方、「THA BLUE HERB」は違う。
伝えるものは意味である。
その意味性の強いラップに音楽を加えたのである。
会場で反応するラップ聞きは何に反応したのか。

おそらく意味ではないかとわたしは思っている。
しかし、意味に反応するために音楽が不可欠なのだろう。
(わたしはこのことをまだ深くはわかっていない。)

意味を遠ざけようとした和合亮一と意味を、時には音楽と争わせつつも、
しっかりと握り締めるMC、イル・ボスティーノ。

この対比は有効だろうか。

雨ニモ負ケズ

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