風に恋するハンググライダー
さわやかな風にたとえられた男がいる。
わたしの若き友人である。
その風は…
そのさわやかな風はいまは吹いていない。
彼自身としても彼の周りにも。
さわやかな風もまたその通り道を必要とする。
さすがに薄汚れたどぶ川の上を吹くわけにはいかないし、
また薄汚れたどぶ川の上を吹く風をさわやかな風と称してはならない。
たとえ、それがさわやかな風であったとしてもだ。
さわやかな風がさわやかに吹くためには、吹く意志だけでは不十分なのだ。
せつない話だ。
吹く意志だけで十分だと、その若き友人の肩をたたきたくなることもある。
本日、西荻の勤労福祉会館で「高井戸ちゃんぷらーず」の演奏がある。
「高井戸ちゃんぷらーず」ってなに? と不思議に思われるだろうか。
それは、風になろうとしている数人のグループだ。
風になろうとして、風になれなくて、それでもなお風になろうとしているグループだ。
穢れないでいてほしいというのはわたしのささやかなそのグループに対する想いだが、
人は生きていくだけで穢れれていく。
バンドも人の作るものであれば、時がたつにつれて穢れていく。
それをさわやかなままに保つためにはある意志とそれに従う努力が要る。
なんのことだ?
残念ながら、それは自分自身で考えるしかない。
おまえの生を全うするのは、ほかならぬおまえであってわたしではないからだ。
ただひとつささやくように教えるならば、その努力の中枢にあるのは距離への想いだ。
距離こそがさわやかさにもっとも親密に寄り添うものだ。
若き友人は、社会との距離をとりそこねた。
距離をとり損ねたかれはかれの職場で風としてあることができなかった。
ハンググライダーが滑空するためには上昇気流を必要とする。
あるとき、フランシス・ロガロだったわたしは彼の風で酒場のなかを舞ったことがある。
高井戸ちゃんぷらーずは勤労福祉会館でわたしを舞わせてくれるのだろうか?
ラベル: 日常
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