2007年9月6日木曜日

和合亮一の詩の朗読あるいは「THA BLUE HERB」の雨ニモ負ケズ


世界32カ国から42人の招待詩人と中国国内から300人以上の詩人が参加した「青海湖国際詩祭」の最終日、
つまり今年の8月10日のことだが、
夕食後、西湖ホテルの庭で朗読会が始まった。

この朗読会、テレビ放送もされるとあって、
ドレスアップしたプロの司会者が司会をつとめるは、
開会とともに花火が上がるは、
サーチライトが夜空に走るは、という派手な演出だった。

そこへ日本から出席していた詩人、和合亮一が参加した。
彼は世界の詩人たちに混じって、2番目に『地球頭脳詩篇』から「ハイヤ ハイヤ」を朗読した。

これが、たいへんな反響だった。

会場は喝采の嵐になり、席に戻った和合氏を追って、テレビカメラはやってくる、
サインを求めに女性が殺到するといった騒ぎ。

会場に日本語を理解する人間は、数人しかいなかったはずだが、
意味が通じなくても、優れた朗読は、普遍的な価値を持つということなのだろうか。

翌日にも青海省の関係者が、
「私は日本語の詩のリズムが好きだ。
聞いていると、力づけられる。
あなたの朗読は、たいへん素晴らしかった」
と和合氏に英語で話しかけ、
バスのガイドまで、
和合氏の朗読に興奮し、夕べは眠れなかったと言い出す始末。

ところで、札幌の「THA BLUE HERB」というバンドをご存知か?

日本語ラップの歴史において特筆されるべきバンドとして存在している。
このバンドのMCがイル・ボスティーノなのだが、 
彼の歌詞が高い評価を受けている。

リリックスのセンテンスの中に複雑に隠しこまれ現われる韻がある。
ある場合は、センテンスごと韻を踏んでいることもある。
巧みといっていいだろうラップを聴かせるMCである。
直接的に韻を意識させないため、ポエトリーリーディングと解釈されがちだが、
ラップ聞きたちは断じて違うという。

これが根性の入ったラップ聞きたちに受けている。
You Tubeでものぞいてみたらよくわかるはずだ。

和合氏の中国での幸福な出来事を知って、ふと「THA BLUE HERB」が浮かんだ。
ちなみにそのとき和合氏が朗読した「ハイヤ ハイヤ」は以下のようなものである。
(ついでに言っておけば、和合氏は積極的に詩の朗読をする詩人だ。)


「ハイヤ ハイヤ」      和合亮一


きみが一心に翻訳をやっていたら海が消えて
きみが爪を切っていたら梨の畑が街になって
戦車の通り過ぎた跡がきみの腿の傷になって
最後の夜行列車の運転手に手紙を書いて不明
                    ハイヤハイヤ
旅の支度なんか 挨拶なんか いらないんだ
言い捨てて きみがきみを 出発した不思議
自分という事実を脱出してしまったので大変
                    ハイヤハイヤ
疑問が靴を履く 踊り出す 僕も行こうかな
昼にハーレーダビッドソンになった夢を見た
三十六色の森林からは暴れ太鼓 まず捕える
きみが乗り捨てて野でいななく駿馬をハイヤ 
                   ハイヤハイヤ
青空から落ちてくるものは 青空でしかない
道にあるものは 道でしかない 鷹は鷹だし
転がる岩はやはり岩だな 輝き狂うよ砂も砂
きみの足跡だけが きみではない 僕は追う 
                   ハイヤハイヤ
かじりかけのパンをナップサックに押し込め
行く先々できみの消息を知り 謎は泣き笑う
遙かな通りの先できみは待っていた 毅然と
きみは鳥 きみは麦 きみは太陽 きみは風 

初出は「朝日新聞」04年10月12日で和合氏はこれを「地球頭脳詩篇」を編むときの2番バッターに抜てきする。
この詩集は、日比野克彦の壮丁によるものでなかなかに素敵な詩集である。
和合氏は05年10月25日に出版されたこの詩集で晩翠賞を受賞することになる。

読んでわかるようにあらかじめ朗読を想定したような作品である。
しかも、現代詩として十分にすぐれている。
意味を追いかけなくても身体に染み入ってくる仕掛けになっている。

もちろん意味をたどってもいいのだが。(日本語への反逆の香りがするこの詩は、
 すんなりと意味をたどることができないようにもなっている。)

いま、もう一度読み返してみると、なるほど朗読として受けるかもしれない。
韻のように踏まれる「ハイヤハイヤ」は夕食後の西湖ホテルの庭でも心地よかったろう。
最後の着地を和合氏がどのように読んだか想像までできそうである。

いわゆる社会が守らねばならない日常を遠ざけようとしたこの詩には
日本語の意味がわかることの重要さが軽減されているのだろう。
意味以外の伝わるもののもたらしたもの。
それを朗読後の観客たちの反応に見たいと思う。

一方、「THA BLUE HERB」は違う。
伝えるものは意味である。
その意味性の強いラップに音楽を加えたのである。
会場で反応するラップ聞きは何に反応したのか。

おそらく意味ではないかとわたしは思っている。
しかし、意味に反応するために音楽が不可欠なのだろう。
(わたしはこのことをまだ深くはわかっていない。)

意味を遠ざけようとした和合亮一と意味を、時には音楽と争わせつつも、
しっかりと握り締めるMC、イル・ボスティーノ。

この対比は有効だろうか。

雨ニモ負ケズ

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