2007年9月19日水曜日

考えるということ


敬愛する人ということになると、鶴見俊輔、塩沢由典、城戸朱理の三人になるだろうか。
世話になった人は多くいるが、敬愛という言葉を冠するとすればこの三人だろう。
星野芳樹というはずすことの出来ない人がいるが、ここでは外れてもらうことにしよう。
星野さんはこの三人とはあまりにも異色だ。
ついでに言えば、
鶴見さんは星野さんのことを高く評価されていたが、一緒に会食するのはちょっときついかなという印象を持っておられたようだ。
というくらいに星野さんは彼らとは毛色が違う。

さて、三人に話を戻すが、わたしはどの人からも多くのことを教わった。
具体的に何かについて教わったことも多いが、なにより考える姿勢を教わった。

何かを考察するとはどういうことか、そのことを知らないで闇雲に考えても得るものは少ない。
考えるには方法論が必要なのだ。
そして、その方法は狭く厳しい。
その厳密性がなければ考察は確かなものへと変貌していかない。


どの人もあいまいな言葉の使い方を嫌った。
あいまいな言葉の使用はその人の考察力のなさを示す。
しっかりと考えることのできる人は緻密な言葉の使用法をもっているものだ。

詳しくは彼らの著作に接してみればわかることだが、
とりわけ塩沢さんの「近代経済学の反省」の序文は美しい。
そこで展開する「認識論的障害」についての言及は考えるということはどういうことかをはっきりと示してくれる。

まあ、誰しもがものを考える必要はないのだが、ものを考えたい人間はせめて「認識論的障害」は知悉していなくてはならないだろう。

堅い話になってしまったが、ふと三人のことを思ったものだから書いておくことにした。
そういえば最近上梓された「アドルノ伝」を読むとアドルノが知人宅でグレタ・ガルボに会うシーンが出てくる。
そのときのアドルノの感想はこうだ。
「偉大な知識人ではないにせよ、感じがよくて美しい。」
つまり、偉大な知識人になるのも大変だが、感じがよくて美しくなるのもとても大変だということだ。
それがグレタ・ガルボ級となればなおさらのことだ。

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