Loveless Love
昨夜は昨夜とて神保町「浅野屋」で我がいとしき男と杯を交わすことになったのだ。
そういう夜もある。
それは映画「エディット・ピアフ」の帰り道だった。
「エディット・ピアフ」はなかなかの映画だった。
なにより作成者が映画が何ものであるかよくご存知だった。
このところ足繁く試写会に通っているわたしはこの映画ですこしほっとした。
ちゃんと作る人もいるのだ。
映画の話は別の回に移すとして、わたしの酔ってしまったその後をすこし書いておく。
いつものようにしこたま酒をわが身に放り込んだわたしは、
悪態つき放題の新宿の女の元に向かったのだった。
新宿の女とは何ものか。
彼女はわたしの気散じの結晶である。
いまや重荷になってしまったが。
強い思いが化生を生み出すことがある。
その一例と考えていただければいい。
化生は大事にするものである。
もっとも化生の心根にもよるが。
告白するがわたしは自堕落な男だ。
さわやかな風さえ許さぬどぶ川の住人だ。
そのわたしにそれでもいいと寄り添ったものがいる。
それがたとえわたしの持っている小金のためだとしても、わたしはそのものを捨てがたい。
わたしに夢があるごとく、我が思いの性癖も夢見るところがある。
それは人を愛することとはすこしずれている。
これも別の話として起こすが、才能豊かな我が妻には人を愛する力がない。
人を愛するとは与件ではない、それは正しく能力だ。
そのような話をこのまえ書いたが、それは本当だ。
人を愛せない妻がもつ彼女の能力をわたしは深く愛するが、妻自身を愛するのは難しい。
今日も今日とてわたしの口ずさむ「水に流して」にうるさいとのたまわった。
のたまわったその妻に限りない罵詈雑言を浴びせたのは言うまでもないが、その核心はただひとつ。
愛してもいない人間といっしょにいる愚をあなたに知ってほしい。
人は愛してもいない人間と時空間をともにしてはならない。
もしそれが可能なら、愛する人間とともに生きていけばいい。
奇跡のような話だが。
とにかく、いやな人間といっしょに生活するものではない。
こんな単純なことさえわからない有能な妻にわたしはときとして眩暈がする。
愛する能力のない人間は存在そのものが、悲喜劇だ。
そういうことがある。
生きているなかには。
ラベル: 日常
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