2007年9月21日金曜日

正しければ、いい、というわけでもない



本日21日は松田優作の生まれた日だ。
そして、この日はわれわれの首相だった安倍晋三の生まれた日でもある。
優作は1949年9月21日に生まれ、安倍晋三はその5年後に生まれた。
(念のためだが、優作の戸籍上の誕生日は1950年9月21日になっている。ファンにはよく知られた話だ。)
星座占いでいうと優作と安倍は同じわけだ。
おまけに同じ山口県の出身だ。
あげつらえばさらにいくつかの共通点をあげることができるだろう。
しかし、そんなものをいくつ並べ立てようと人に対する何の説得力も生まないだろう。
二人があまりにもかけ離れすぎていることを人は直感的に知っているからだ。
切り取り積み上げられた正しい事実にもとづいたとしても、その共通性に力はない。
正しいだけではだめなのだ。

占いのことを思う。
人は自分の考えているよりずっと多様なものだ。
占い師があなたは積極的だといえばそういう面があるかもしれないと思い、消極的だといえばなるほどそうかと思う。
積極的100%の人もいなければ消極的100%の人もいない。
人は一点が積極的100%、もう一点が消極的100%の線分上に位置している。
ある程度ものを見られる人間は目の前の人間の様子からその内面を推し量ることができる。
それをもってあなたに占い師は言う。
占い師の言に反応するあなたはそのまま占い師の新たな情報だ。
賢い占い師はそのように占いを進行する。
何かが見えているわけではない。
目前のあなたの様子を見ているのだ。

もちろん霊感というものはあるかもしれない。
未来が予見できる可能性はあるだろう。
しかし、彼らのいう5年後に来る仕事の転機や2年後に現われる結婚の可能性が正しい予見だとしてそのことはどれほどあなたの役に立つのだろう。
5年後のいつ、どのような形で仕事の転機は訪れるのか、結婚する相手はどの場所であなたを待っているのだろうか。
ぼんやりとした5年後の仕事の転機や2年後の結婚の可能性は何をあなたに教えてくれているのか。
あなたのなかの問題に対して占い師の情報は、それが正しい情報だとして何をしてくれるのだろうか。
もし、あなたのなかの問題との折り合いのつけかたがあなたが思い煩う胸中の核であるならば、そのために必要なものは占い師の手にはない。
あなたの手にある。
では、なぜあなたは占い師のもとに、友達のもとに、先輩のもとに行く。
淋しいからだ。
淋しいから彼らのもとに向かう。
しかし彼らのもとにあなたの真に求める答はない。
彼らの持っているものの多くは社会常識に支えられた正しい答だ。
それは果たしてあなたが必要としたものだろうか。
あなたが真剣に何かを求める人ならば人であるほどあなたの求める答にその種の正しさは必要ない。
「正しければ、いい、というわけでもない」とはそういうことだ。
まあ、どちらにしても答はあなたの内にあって外にはない。
いや違うか。
内にも外にも答はあるがどちらにしても選ぶのはあなたで、その選ぶ主体であるあなた自身の場所だけは他人に明け渡すなということか。

ところで預言者というのは以上の話とは違う。
ブラジルのジュセリーノがその最たる存在だろうが、彼によると2008年9月13日にアジアに大地震が発生するらしい。
これは、正しい予知夢(彼の場合は夢を見るのだ。)でないほうがいい。
ここでもまた「正しければ、いい、というわけでもない」のだ。

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