2009年6月29日月曜日

たとえばさ…

この女がいれば、ほかは、まあいいや…、なんていう女性がいる。
いるって、オレがそう思っているだけの話だが…

そういうことなのだ。
生きている価値は。

わかるでしょう、クソみたいなものだ。

そういうクソみたいなものを大事にしようというのが、わたしの思いで、ここではっきりとしておかなければならないのは、あなたたちにはクソみたいに見えていいけれど、その女性は、オレにとってはかけがえのない、そういう主観と客観の違いなのです。

なんで、こんなことを繰り返し書くかというと、客観が主観に勝っていると思う人が多すぎるからです。

人は主観で生きるのです。

だから、基本的に民主主義が危ないのです。

衆愚政治というコトバをご存知ですか?
あれは、バカな人間がいくら集まっても、客観がいくら集っても正義にはならにということをいっています。

だから、独裁がいいのか?
もし、そう思うなら、それがマヌケなのですよ。

ヒトがものを考えるところには、そういうつまらぬ正義は成立しないのです。
多くが信じたことが間違いだった。

悲しいかな、もともと、何かを判断する人間が少なすぎた。

そういうところに成立する民主主義は最低だ。

わたしは、そう民主主義を思うが、じつは、ずいぶん前から同じことを語ったヒトはいた。

輝け、民主主義。
あほマスコミに踊らされるんじゃないぞ。

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マイケル・ジャクソンの死


マイケル・ジャクソンはあるジャンルにおいて限りなく大きな存在であったらしい。
わたしの興味のないジャンルだ。

けれどもテレビに映るダンスシーンを見れば、これはかっこいいな、と感嘆する。
が、それは見る側のわたしであって、マイケル・ジャクソンの側ではない。

生きるに値する生を手に入れたかどうかは、客観的な判断ではなく、きわめて主観的な判断による。
マイケルの主観的判断が、客観的な判断によって十分に狂わされていたのは、死後のテレビ特集を見てもわかる。

自分の生に対する意味づけに他者からの賞賛はいらない。
たとえ賞賛があったとしてもあまり動かされることはない。
問題は、あくまでも自分がそれをどう見るかにある。

そして、賞賛を受けながら、賞賛に迷うことなく歩く人もいる。
主観的評価と客観的評価の溝は深い。

もし、他人の評価が必要とするならば、あなたにとっての肝心な一人に評価されれば、もうこれ以上の幸せはないのである。
自分の生への意味づけはそういう位置にある。

マイケル・ジャクソンは、個人的には、時代に振り回されたな、と思う。

もちろん、彼が彼のジャンルで残した功績と今の話はまったく別のことだ。

見る側は彼の幸福など願ってはいないからだ。
見る側の願うものは、すばらしきエンターテイメントだ。

それが、彼にとっていかほどのものだったのか。(金は稼がせてくれただろうが)
生きるに値しないからこそのマイケルの死ではなかったのか?

彼の死をあのように、騒ぐことでもあるまい。
よくあることだと思う。

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生きるも死ぬも値はしない

V.E.フランクルは、
「Homo patiens(苦悩する人間)の、価値の序列は、Homo faber(道具人)のそれより高い」と言ったが、本当だろうか?

うれしいコトバだが、にわかには信じがたい。
フランクルの見てきた強制収容所の中での真実であって、実社会ではあまり妥当するものではなかろう。

けれども、人が人間的に悩むことを止めたとき、生きる意味に関心を失ったとき、生命力が落ちるのは確かだろう。
残念ながら、今の時代にもこれは当たる。

もし、可能ならば、人は無防備に、生きることの意味を信頼すべきだ。
それこそが、幸せというものだ。

苦悩しなければならない人間は、見なくてもいいものを見てしまったり、知らなくてもいいことを知ろうとしてしまったりの場合であり、それはそもそも不幸なことなのだろう。
まさに、強制収容所に入るようなことだ。

しかし、強制収容所に入ったならば、人間として苦悩し、生きる意味を探る努力は必要になるのだと思う。(今を強制収容所のようにわたしが思っているからに過ぎないかもしれない。このわたしの感じが、あやふやと思えば、「夜と霧」を読んでみてほしい)

けれども、フランクルも知っていたと思う。
生きるも死ぬも値はしないと。

値しないから意味づけする必要が生まれる。

このブログで、何度も繰り返す生きることへの個人的な意味づけは、とても大切なことで、その裏には、もともと生きることになんらの意味がないことを見ている。

だからといって、他人の生きる姿を奪い取るのはよしてくれ。
人を殺すことは、あなたの権利でない。
同じように、その人が自分の生きる意味と思うものをなじるのも、あなたの権利ではない。

それは生きているその人の権利だ。

そのために、法はあり、国家はある。(時にそれらは逆に作用もするが、今のイランのように。いつものアメリカのように)

生きるも死ぬも値はしない。

さて、どうする?

あなたの描くその絵はキミの生きる姿へのよすがとなるのだろうか?
わたしの見る庭の雑草は、生きるよすがとなるか?

とにかく、わたしたちは何か生きることへのよすがを作らなければならない。
(知ってしまったならばだ)

もし、自然に笑いあいながら、生きることへの自覚もなく無防備に森を散歩できないのならばだ。
恋愛は、単に男と女が引き合うのではなく、それが生きることへの無防備な姿となる道への導きだからだ。

そう思えないか?

誰かを愛するあなたには。

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2009年6月28日日曜日

過剰睡眠

ここしばらく過剰な睡眠状態にあり、ほとんど起きられませんでした。
睡眠時間がただやたらに長く、それも熟睡というのではなく、うつらうつらが延々と続くのです。

他人ではなく、本人自体が「こいつは生きる気がないのだ」と思い込んでしまいそうになりました。

文字は読めず、スポーツのテレビ番組とちょっとしたマンガを読むくらいの起きている時間と睡眠が延々と行過ぎます。
不眠症もしんどくはありますが、こんな過剰な睡眠の中で生きているのも、しっかり生きておられる人と比べ情けないやらバカらしいやら。

そんなことで、はたして生きていていいのやら。
もしも意味というものが、生きていることに課せられるとしたらですが。

なんとも妙な気分でした。

その間です。
木村一基が羽生から棋聖戦で二勝目をあげたのは、いい勝ち方だったから、もしかすると棋聖位奪取までいくかもしれない。

前向きな人間の美しさですね。

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三人の人

以前、鶴見俊輔さんのお話をお聞きしていたとき、今の日本に自分の信用している人が三人いるとおっしゃっていました。

一人はサリン事件、誤認逮捕の河野さん、ペシャワール会の中村さん、中国地方の田舎のお医者さんでした。
その河野さんに関するテレビをやっていましたが、冤罪すれすれの状態にあって、立派な振る舞いでした。

わたしには、わかっていませんでしたが、人にはひとのために生きるという美しい思いがあり、それが前述の三人に結晶しているように見えます。

わたしには人のために生きる前に自分に汲々としているだけという、その程度だという哀しさがあります。
まあ、ちんけだということですね。

人のために生きる。

しっかりと、考えたことも思ったこともありませんが、しばらく身のうちに抱きながら考えてみたいことだと思います。

そう言えば、暑くなり始めましたね。
梅雨の晴れ間だというのに。

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2009年6月25日木曜日

死ねば、悲しいか

だれかが、死ねば悲しいか?

ふと、そんな疑問にとらわれる。
その人が死んでしまうこと自体は悲しくはないだろう。
その人に会えなくなってしまった自分の境遇は悲しいだろうが。

それでも、もし、悲しいのなら、その人の遣り残したことが目に浮かぶからだ。
何かを産み出す人ならば、その死は悲しい。
けれども何も産み出すことのない人であれば、いつ死んでも幸せではないか。

そのように生きていてほしいと思う。

わたしにとって、わたしの母の死は悲しかった。
彼女は、いつもわたしに安らぎを産み出してくれた。
ここまで考えれば、死はその人に対するある種の個人的な人間にとっては悲しすぎる出来事かもしれない。

だからこそ、誰でも彼でも、悲しい悲しいとのたまわってくれるな。
わが母の死に対する悲しみはわたしのなかにだけある。

ああ、そうだ。

死とは個人的な出来事なのだ。

そして、悲しいと発言するのは公の場でしかないのだ。

ここで、こう書かせてほしい。

あなたが死んでしまったら、オレはとてつもなくさびしくて、かなしいよ。

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日常が非日常に変わるとき

このブログで再々取り上げるからわかっていらっしゃると思いますが、わたしは将棋が好きです。
みなさんにも好きなものがおありでしょう。
ただ、わたしの好きなものをあなたが理解できないようにあなたの好きなものをわたしも理解できないという不自由は生じているのでしょうが。

将棋とは双方が20枚の駒を持ち、その駒の属性に合わせて駒を動かすことにより、ああやったり、こうやったりしているうちに相手の王様を取ってゲームが終了するというゲームです。

そのゲームになぜに一生を賭ける人が出てくるのか、そこのところが興味深いのですが、将棋に限らず、一般に人は生活の糧のため日々同じことを繰り返します。
これを正確に言えば、人は日々同じことをしているように見えます。

ところが、やっている本人には同じことをしているようには感じないのですね。
そこが肝心。

日常が、非日常に変わるとき、その人の目に日常が、同じことが、違って見えてくるらしいのです。
逆から言えば、日常が同じように見え出したときには、すでにその世界からあなたが排除されたのです。

会うたびに違う彼女とでも申しましょうか。
将棋を指すたびに違う宇宙が見えるのでしょう。
文章を書くたびに違う宇宙が見えるのでしょう。

だからこそ、言わなければなるまいと思うのです。

ありきたりの毎日が非日常に変わるときが訪れる可能性を。

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2009年6月24日水曜日

精神の病

肉体的に現れるものであれば、人は大いに心配げにしてくれる。
それは、片手がなくなったとか、異常にやせてしまっているとか、片目がみえなくったとかを想像してみればいい。

けれども精神の病はそうはいかない。
何しろ外見上は何も変わっていないのだから。

不眠症の人間には、「眠ればいいだろう」と思うし、
うつ病の人間には、「がんばればいいだろう」と思う。
アル中には、「酒を止めればいいだろう」と思うのはいうまでもない。

けれども精神の病には、外に見える現象の裏にその因がある。
その大本を治さないことにはどうにもならない。
(書き添えておけば、精神の病の原因が精神にあるとは限らない)

実はわたしは精神的に弱く、始終、病がちである。
これを他者の目は、「あいつはくそだ」と見る。
確かに当たっている面もあるが、そうでないところもある。
けれどもそうでないところはなかなか見てはくれない。
(甘えるんじゃない。カタチにしなければ人は見ないのだよ)

それはそれでいい。
耐えてしのぶしかない。
そして、出来れば、わかってくれる人を一人でもいいから持つことだ。(もし、わたしの仲間がいればと思ってこの一文は入れました)

とにかく、精神の病を持つ人間はいじめられる。
人は自分の目に見えないものは、存在しないと思ってしまうのだ。

けれども、そうではないのだよ。

あの娘の美しさは目には見えないけれど存在するのだよ。
オレの悲しみは目には見えないけれど存在するのだよ。

このところ、わたしの精神の病をケチョンケチョンにくさされたから、思わず、こんなブログを書いてしまったよ。
まったくもって、精神の病はどうしようもないな。

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何かを作ろうとするとき

それが絵であろうが、噺であろうが、文章であろうが、マンガであろうが、何かを産み出す秘訣はたった一つではないかとわたしは思っている。

それは何かわからぬものであってもそのものを思い続けることである。
ただひたすら思い続けることである。(何かわからぬものを思う? 論理矛盾があるが、まさにそうなのだと思う)
その中から何かが飛び出すのではないのだろうか。

それがいつになるかはわからないが、粘り強く思い続けることである。

そのことだけが何かを産み出すことにつながるのだろう。

もちろん、そのようなことをしなくても何かを産み出せるのならば、それはそれで素敵なことだ。

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2009年6月23日火曜日

病気だから仕方はないのだけれど

自分のうちをいくら探し回ってみても出てくるものはしれている。

何かが出てくるためには仕込んでおかなければならないし、仕込んだものが出てくるためには、その仕込んだものとの出会いのために何らかの刺激が必要になる。

この仕込みと出会いのために外部との接触が必要となり、その接触の中で外部のものの質(この場合は自分との関係性においてとするほうがよいかもしれない)を見きわめる技術を高め、いいものと出会う必要がある。

そういうわけで、少しでも元気ならば外に出るに限る。
外に出るのは気散じにもなるし、そうやって気散じしながら一生を全うするというのが、健全な生き方で、その際にその健全さを他に誇らないのが人間の徳というものである。

健全といっても所詮暇つぶしであって、同好の士でなければそんな話に興味も持つまい。
そんなところから仲間は大事という話も出てくる。

それもこれもなければ、鶴田浩二ではないが、「右を見ても左を見ても真っ暗闇じゃあござんせんか」ということになる。
で、実際のところはもともと真っ暗闇なので、それでわたしたちは手前勝手に灯りをともそうとしているのだ。

自分の灯りを大切に。
他者の灯りに敬意を払おう。

それが生きていくということの危なっかしさへの尊重だ。

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馬祖道一の言葉

馬祖道一は中国の禅僧である。
入谷義高がその禅宗を受け継いでいる。

この馬祖道一は高齢になっても只管打坐を崩さなかった。
その座る目的は、固定しやすい世俗的な自分の中にたえず新しく「迷人」を見出すことだと述べている。

まことにもって、瞠目すべき御仁であった。
ここに「迷人」であることの難しさと、厳しさを改めて知らされる。

少し前にうつ状態になると、中へ中へと目がいくということを書いたが、いくら中をたどろうとも意外に中は空っぽなもので、あるいは真っ暗なもので、何かが見つかることはまれである。
そういう場合は、少しでも元気があれば外を見渡してみることが肝要である。

もちろん無理をしてはならない。
ゆっくりと自分の力の許す限りに、自分の目の玉で外を眺めることである。
そうすると、ああ、と思うことに出会うことがある。

「迷人」という言葉にわたしが出会ったのもそういう時でありました。

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2009年6月22日月曜日

伊集院光

また、わたしの日常は、不眠の旅が始まっていて、先週の月曜日には伊集院光の深夜放送を聞いてしまった(25時始まり)。

彼の輪芸が光っていたのは知っているが、わたしは何しろ話芸に関しては、柳屋小三治を押す男だから、そのまま自然に伊集院はいいとは言いづらい。

けれどもあいつの話題の豊富さと話の持っていきかたは、抜けている。
この場合、抜けているとはセンスがいいということだ。
センスはいいが、彼には若者もターゲットにしなければならない痛みがあるから、ここに傷が生じる。
安直なわかりやすいギャグを放り込まなければいところ、そこがつらい。

伊集院氏はこれについてはどう思っているのだろうか。

ところで、その一週間前の彼の放送では富山に映画を見に行った話をしていた。
「ルーキーズ」「剣岳 点の記」「ターミネーター4」を観たと語っていた。
それぞれの映画の感想もすばらしかったが、なぜにオレは富山くんだりで映画を観ているのかという話が愉快だった。

要するに、伊集院氏に言わせれば彼は「同意マン」だというのだ。
インターネットでいろいろやっていると、ときどき「同意しますか、しませんか」というメッセージが登場してくるのだが、彼は躊躇なく「同意します」をクリックするという。

その結果の結果、富山での映画鑑賞なのだ。
「同意する」を押したときはまさか富山だとわからなかったというのだ。
これは傑作な話だった。

ちなみに彼は「剣岳」を見たかったのだが、この映画は、剣岳のある富山では先行上映されるのだそうだ。
それを知らない「同意マン」は、とにかくクリックして、結果、富山に行く羽目になったという。

愉快愉快。

実はわたしも同意マンだが伊集院氏ほどの同意マンかどうか。

そして同意マン伊集院氏が富山で拾ってきた話はとてつもなく愉快だった。
このあたりの話芸は、さすが楽太郎師匠についていただけあって、落語の進行を感じさせる。

こうなれば、やはり言っておかなければなるまい。

伊集院光の話芸は一流だ。
タレントとしては群を抜いている。

それをこれからどうするかが、彼の大きな問題だ。(どうしなくても生きているだろうだけに)

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2009年6月21日日曜日

べてるの家


発生主義、現金主義などと書いたが、その発生に注目した活動をしているのが、「べてるの家」で、この家のことを知るといろいろのことを教えてくれる。

すべてを書くことは出来ないが、いくつかのコトバを挙げておきたい。

「どの悩みを生きるのか」(人は選択した悩みを生きる)
あきらめることを大事にしよう(あきらめる→あきらかに認める)
心の底からでなくてもいい、ただいい加減に信じてみよう
上手な行き詰まり方

書いていて、なにも伝わらないことに気づきました。
これらのコトバは、「べてるの家」の当事者研究から出てきたものです。
当事者研究のその場にいないと、このコトバとは出合えないのだと感じました。

まさにコトバは生きているであって、その生きる条件を満たさない場所にあっては、書き連ねても無意味に映ってしまうのですね。

コトバの生きていける条件の下にコトバを生み出すことを思いました。
まったく持ってうまく伝わりませんでしたが、遠い北海道に「べてるの家」というところがあることだけ覚えておいてください。

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帝銀事件

平塚八兵衛を主人公にしたテレビドラマが流れている。

ドラマの出来はともかく、その中で扱われる帝銀事件は問題の多すぎる事件であり、あのドラマで扱う事件であったかどうか。

平沢貞通が犯人であったかどうかは、彼の生前も死後もいくつもの疑問が提出されている。
帝銀事件は、平塚八兵衛氏の扱った事件の中の大きな汚点だったかもしれない。
というよりは、当時の警察はそのような問題点を保有しており、その中に平塚八兵衛もいたということだ。

そのことが、あまりに安直な帝銀事件の扱いに対し、わたしに嫌悪感を覚えさせる。
帝銀事件は、平塚八兵衛という一個の人間を描くために軽々しく通り過ぎてもいいような事件ではなかったのである。

もし興味をもたれたならば、詳しいことは、調べてみられたらいい。
平沢氏がどうのこうのではなく、帝銀事件がとても厄介な事件であることがわかってもらえれば十分である。

ドラマの傷としては、これは大きいし、平塚八兵衛氏の生きていたころの取調べの残酷さもまた、傷としては大きい。
もちろん作品は一種のトリミングであるから、そのことにグダグダと文句も言えまいが、足利事件の直後だけに妙に気になる。

あえて書けば、ドラマとしての出来はいい。
だからよしとは言えないのが、実際の事件を題材とした罪だ。

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2009年6月20日土曜日

中へ中へ

自分の思いが自分の中へ中へと向かっていく。
というよりは、外へと向かえない。

これは明らかなうつ症状なのだが、こういったときに外へ向かえないことを面と向かって罵倒されるのはつらい。
罵倒に言い返すことは何の解決にもならず(概ね、そのような人は認識なき悪意に満ちている人で、こちらがぼろぼろになるまで止めようとはしない。もっとも、こちらはこちらで相手方には存在そのものが悪意に満ちているように映っているのであろう。困った状態じゃのう)、まったくもって拷問のような時間だ。

さりとて解放されたとしても、思いはなおも己の中へ中へと向かい、自分の中に何もないことを嘆く。
だから、もし、お仲間がいればの話だが、こういうときは、ただただそういう傾向が過ぎ去るのを待つことだ。
待てば、どうにかこうにか戻ってこられる。

わかってもらおうとするのではなく、ただただ待つことだ。

中へ中への傾向がなければ、あまり恐れなくてもいい。
外に向かう関心があるならば、それはそのまま生きる意欲につながる。

外に向かうことで自分の住みうる虚構は出来、また一歩進める。

中へ中への傾向を持ってしまったうつ状態の人がいるかも知れぬと思い、この文章を提示します。

関係ない人は読み飛ばしておいてください。

妄言多謝

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発生主義と現金主義

「発生主義」も「現金主義」も会計用語である。

一つの工場で考えれば、たとえば工場運営にかかる電気代を3ヶ月ごとに支払う契約をしたとする。

この場合、発生主義で考えれば毎月の生産活動の勘定において消費する電気が実際、現金を支払っているかどうかとは関係なく費用として換算される。
資源の消費と生産が時間的に統一されているわけだ。
発生主義を採るならば、毎月の決算においては電力代の支払い有無に関らず、電力代は費用として会計に計上される。

同じように寿命が十年の機材を100万円で購入した場合に、支払いは最初の一年目に100万円であるが実際の経済資源の1年の消費はその十分の一に過ぎないとすれば、発生主義に基づけば毎年10万円が費用として計上される。
これを一般的には減価償却と呼ぶ。

現金主義における収益や費用の認識が現金の受け渡しの時点を基準にするのに対して、発生主義においては、現金収支を伴うか否かにかかわらず、収益または費用を発生させる経済事象に着目し、この事象に従って収益または費用を認識する。

これは、人の行動を判断することにもそのままメタファーとして使用できる。
最終的な行動、それが犯罪であれ、自殺であれ、目立つ行動であるならば、ひとは最終行動からあれやこれやと考えようとする。(現金主義)

しかしながら、この最終行動を発生させるに足るもろもろの事象はそれ以前に生じており、このことこそが、問題かもしれない。(発生主義)

人は最終的に何をしたかによって判断しようとするが、(とくに秋葉原事件やバスジャックのようなわけのわからぬものは)それ以前にその場所まで犯罪を起こす人間を連れて行ったものがある。
連れて行ったものの中には犯罪者自身の精神のありようもあるが、それ以外の要素がなかったとは言い切れない。

あまりにも発生主義を軽視する傾向にあるとわたしには思えるが、犯罪の再生産可能なシステムがすでにこの社会に出来上がっているとしたら、それをこそ問題にすべきだろう。

そのシステムを止めるのに個人が無力だとは思はないが、社会として考えねばならないポイントも抜きには出来ぬだろう。

追い詰められて最後にとる行動だけを見て、その人間を判断する愚考は否定したい。
もちろんその愚考が引き起こした悲劇はそんなことでは消えはしないのだが、その悲劇を一人にかぶせることは何の解決も呼ばないように思う。

いつも書くように人というものはそんなにも上等ではないのだ。
認識なき悪意で容易に地の底まで突き落とされる。
そして、その悪意の主は自分の悪意が起こした事象には無頓着に追い詰められた人間の起こした現象をまったく自分にはかかわりのない事件のように語る。

人はそのように立派ではなかったはずなのに。

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2009年6月19日金曜日

おめでとう、木村一基



棋士番号222の木村一基八段が、今回の羽生善治に挑戦する棋聖戦第二局でタイトル戦初勝利をあげた。
「千駄ヶ谷の受け師」の異名を持つ木村さんらしいすばらしい受け勝ちだった。

木村さんは、2005年第18期竜王戦(対 渡辺明)、2008年第56期王座戦(対 羽生善治)とタイトルに挑戦したが、一勝も出来ず0-4,0-3で退けられた。
そのことで、タイトル戦では(つまり和服を着ては)一勝も出来ていないといわれていたが、それが9戦目にして今夜初勝利をあげた。

これが、何事かを成し遂げる人間のがんばりだ。
学ぶべきものだとしみじみ思った。

ただただ、ひたすら地道に進むことだけが、あるものに達する。
それが、唯一の道かもしれない。

わたしにないものだろうか。
情けないことだ。

いやいや、そう嘆いてばかりはいるまい。
それでもいいから、進んでみようではないか。

木村一基さんが、たとえ今期棋聖位を取れなくてもいい。
その生き方は、学ぶに値するし、見るに値する。

前を向いて胸を張って生きていたいものだ。
いいものを見せてもらった。

ありがたかった。

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自分のやっていることは自分にはわかっている

「自分のやっていることは自分にはわかっている」

そのように信じ疑わない人は多くいる。
しかし、自分自身が自分を自分の指揮下においているかといえば、はなはだ不確実な話だ。

裁判でよく問題になるのはこの点で、自己管理化にない犯罪は無罪、あるいは罪の軽量化となる。
そして、それは裁判だけにかぎったことではなく、日常でも頻繁に起こっている。

「自分のやっていることは自分にはわかっている」

は、当たり前のテーゼではない。
一般には、なにをやっているかを決定するとき、自分自身が全面的にその主体の場にいる機会は通常のことではないことを知らなければならない。

だからこそ、検証し、自分の行為を自分の手の元に戻したく思う。
それがたとえ自分の無意識の行為であっても。

わたしは、実は、酒を飲むとまったくもって不可解な行動を起こすようになった。
だから飲まないようにしているが、飲んだら、ほぼ確実に不可解な行動に出る。

そのアルコールを帯び、不可解な行動をとる生物をわたしではない、と言い切ってもいいのだが、そういうことを理解はしてもらえまい。

裁判ともなれば、心神喪失者あるいは心神耗弱の対象になるかもしれないが、そういうことではなく、日常生活でさえ、もはやハンドルを失ってしまったのかもしれない。

けれども失った、あるいは見えなくなったハンドルは確かにどこかにある。
それがわたしの何の根拠もなく信じる思いだ。

ハンドルが、眼前に現れるように生きてみたい。
そしていつの日か、ハンドルなしで自由にこの世を駆けてみたいものだ。
自分の思うがまま。

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さらに「剣岳 点の記」

このところ連日、「剣岳」関係の放送がテレビを賑わす。
どこかの力が動いているのだろうか。

そのなかで、おもしろい発言がある。
試写を見た年配者から、あの場面はうまくCGが使ってありますね、とほめられるというのだ。

けれど、「剣岳」は実写にこだわった映画である。
指摘された部分もまた、実写である。

実写ではあるが、観客がCGとして眺めれば、それはCGに他ならないのではないだろうか。
それとも映画を観ることに長けた観客が見れば、実写のすばらしさを感じ取れるのだろうか。

どれだけ苦労して書き上げたものでも、お手軽に書いたと読者に見て取られたら、それはそれだけの話だろう。
作品が一人歩きするのは致し方ないものであるとはこのことなのか。

「剣岳 点の記」
実際に目にするつもりだが、そのときに実写である迫力のようなものが、わたしに伝わってくるかどうか。
もし、伝われば、それは作成者と観客との幸せな出会いというものだろう。

作品に求められるのはそういった幸せな出会いなのかもしれない。

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2009年6月17日水曜日

思いつき

わたしの書いていることは、そのほとんどが思いつきに始まる。
思いつきはそれ自体軽いタイミングの飛び出しだが、展開によってはとても重要な要素になる。

こう言い換えてもいいだろうか、人は思いつくが、思いつきだけでは、なんらの成果ともならない。
思いつきが何らかの手を加えられカタチになったとき、そのカタチが評価されることはある。
そのとき、そのカタチの底にはかならず思いつきがある。
その意味で思いつきほど大切なものはない。

だからこそ、あなたが何かを思いつくとき、その思いつきが以前の自分の考えとの矛盾をはらんでいようが、自己分裂といわれようが、大切にしたほうがいい。

カタチとなる表現はその先にあるからだ。
残念なことだが、カタチとならなければ思いつきは思いつきとして砂の上に書かれた忘れ去られる運命にあるラブレターとなってしまう。

カタチにすることは大変な重労働だが、いったん思いついたものはカタチにしてみたいものだ。
それがどんなにつまらぬものであってもカタチにしてみたい。

そういう作業の中で思いつきを造形する力が養われていく。
造形する力の養成が、さらに思いつきに磨きをかける。

ほんの些細な思いつきをみだらに放り出すことはヤメにしようではないか。
思いつきこそが、あなたのありようかもしれない。

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剣岳 点の記


カメラマンとして鳴らした木村大作監督の映画作品「剣岳 点の記」が評判だ。
このCG全盛の映画業界で、実写にこだわり順撮りした映画だ。

200日かけたこの映画は、すべて自然と人間を映すことだけに集約されている。
そこでは、木村氏の言葉を借りれば、人間もまた自然だという。

実は、この映画、わたしはまだ見ていない。
観ていないが、その評判だけで心躍る。

そこには、ただたんたんと何のたくらみもなく絵を撮り続けることでどれだけのものが出来るのだろうという興味がある。
ご存知のように努力は何の成功への保証もしない。
しかしながら、多くの成功には必ず努力が潜む。

この映画、どれだけのものをわたしたちに与えてくれるのだろう。
役者も監督もスタッフも地道にコツコツと氷点下の中、200日かけて撮り続けた映画は、どのくらいわれわれの心に響き、届いてくれるのだろうか。

この映画に接することは、製作者の作品が作品として試されるように、われわれの眼も作品を見るだけの眼としていまだ働き続けているのかどうかが、試されるのかもしれない。
この映画のなかでは、感動を無理やりに押しつけるような野暮な好意は一切していないはずだ。
そういうカメラマンとして、わたしは木村大作氏を知っている。

「剣岳 点の記」は6月20日公開予定となっている。

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2009年6月16日火曜日

樺美智子

樺美智子は、1960年東京大学文学部日本史学研究室学生であった。
そして、安保闘争で死亡した最初の大学生であった。
彼女の死亡した日が、昨日6月15日であるから、ある人々にとっては昨日は忘れ辛くなっている日だろう。

彼女の死の衝撃がいかほどのものだったかは、当時部外者だったわたしにはわからない。
部外者の感覚とはそういうものだ。

では、わたしが当事者の死として受け止めるのは誰の死なのだろうか。
それが、いまのわたしにははなはだ怪しい話で誰といって名前を挙げられないのだ。

では、過去には。
過去にはそういう死はあったが、その記憶はすでに風化している。

こういったことがらが、自分の生きていることから実感を失なわさせているのだろうが、これもまた感情の回復を待つしかないことなのだろう。

人の感情にも起伏がある。
一時だけで自分を評価すまい。

時には過剰すぎる思いも、時には酷薄すぎる思いもすべて自分の抱いたものであるならば、おとなしくつき合うしかあるまい。

それもこれも含めて自分なのだから。

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2009年6月15日月曜日

断言すること

立川談志を聞いていて思うのだが、彼には断言を聞かせる愉快さがある。

一般論を言えば、多くの人は断言することも断言されることも好きである。
わたしはといえば、談志はそういう人間だからと思っているから、そう腹は立たない。
けれども、たいして吟味もせずに断言することは好まない。
したがって多くの人のコトバはそのまま信じないことが多いし、自分のコトバを断言調に語ることは苦手だ。

それでも少しずつ確かなものが増えていけばいいと思っているし、おかしいと思えばその段階でもう一度自分の考えを吟味しなおしてみる。
あまりカッコはよくないがそれがわたしのスタイルだ。

それとは別にの話だが、人は断言されることを望んでいる。
人は命令されることを望んでいる。

そう思えてならないこともある。

細やかに自分の肉体を通しながら、あれこれを取捨選択して生きている人はまれだ。

もちろん生きている間、いつでもそうする必要はないのだろうが、ときには細やかに自分の肉体を通じて自分と語りあう必要はあると思っている。

念のために書き足しておきますが、これは別に説教をしている文章ではなくて、ふと考えてみれば、オレはこんな風な感じだなあという感慨です。
あなたに対する「強制」のニュアンスはいささかもありませんので、入らぬ気は使わないでください。

先に書いたようにわたしは断言を好む人間ではないですから、そのコトバには圧力というものがありません。
もし、あるとすれば浸透力ですが、そんな力もあるかどうか…

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忘れるということ


忘れるということのありがたさ。

久しぶりにと池波正太郎「雲霧仁左衛門」を手に取ったところあまりに覚えていないことに驚いた。

さすがに読み進むにつれて次第に思い出しはしたのだけれど、わたしの長く住んだ三重の地名が、四日市、津、桑名、蟹江(ここは三重じゃないね)、多度…と出てくると、いい本に出合ったわいと思う。

忘れるということが与えてくれる恩恵というのはこんなところにもある。
もっと本格的な恩恵もあるのだろうけどね。

お互い、いやなことは忘れて、たとえば人であれば、その人のいいところをあえて眺めるようにしたい。
その人のいやな部分を意識して取り上げることで不愉快になったり、攻撃してもあまり得るものはないし、気分悪いものね。

もっとも相手が、あなたの主要な敵であれば話は別だけれど、そうでなければ、人はそのいい部分を主に見ていきたい。

わたしは池波正太郎と藤沢周平を並べれば、藤沢さんを好むが、手に取りやすさからいえば、断然池波さんだ。
池波さんのいやなところはあるが、楽しませてくれる池波さんを悪くは言いたくはない。

とにかく忘れることで「雲霧仁左衛門」を十分に楽しませていただきました。

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2009年6月14日日曜日

コメントあり

6月12日の「個人の情報」というブログに以下のコメントがありました。


矛盾してますね。あなたこそがブログでそうした発信をしているのですよね。あなたの自己分裂はそのあたりにありますが、それを継続してwatchingしている人が居るからこそお互いに存在意義を見いだしているのではないでしょうか。それがblogのブログたるものだと思います。要諦は逃げない事だと思います。


SAWASAWAという人からです。

残念ながら、わたしはブログのことがよくわかっていなく、コメントのメールの中にアドレスを書いていただかないと返事のしようがありません。
あえて匿名としているならば、つまらぬことです。

まあ、それはそれとして、「個人の情報」というわたしのブログは、あまりいい感じのものではありませんでした。
あそこで指摘したMIXIやブログの姿こそわたしの憧れるものであり、それを出来ない自分を嘆くというのがわたしの素直な気持ちでありました。
(人は気分でうそをつく)

だからSAWASAWA氏という匿名の人の言うことはあのブログに関しては、別の意味で刺激的です。

で、わたしがどうでもいいようなことを毎日毎日書いているという指摘に関しては、誤読だと思いますが、誤読もまた権利ですから、そう読ませてしまったわたしの責任もあります。

継続して(ブログを)watchingしている人が居るからこそお互いに存在意義を見いだしているのではないでしょうか。
(なんともおき楽な)

それがblogのブログたるものだと思います。
(この認識はわたしとは違うけれども、あなたがそう思うならそうかもしれません)

要諦は逃げない事だと思います。
(そういうことは自分だけで思っていればいいことで、他人が、それも匿名で書いてよこすことではない。ネットにそういうバカな奴らがいることは知っているが、自分が思うことだけに正義があるなんて思いなさんな)

ときには逃げないとだめなんだよ。
それが、わたしのブログを読んでくれている人へのメッセージです。

まあ、いろいろの読み方があるので、それはそれでいいのですが、匿名でぎゃあぎゃあ言われるのはいやなものです。(今度はちゃんとメアドと名前を載せて書いてくれ。それが礼儀というものだ。キミのコトバで言えば、それが要諦だ)

むかし、オレも三宅洋平さんというミュージシャンに同じようなことをやって、仲直りするのに苦労した。
(キミは自分を立派だと思っているらしいから展開はなさそうだな)

とにかく「個人の情報」というわたしのブログがあまりよいものでなかったことを、ここに、SAWASAWA氏以外の読者にわびます。

そして、つまらぬコメントにも得るところがあることを感じます。

けれども、一段上から人のことをぎゃあぎゃあ言うもんじゃない。
今度はちゃんと名を名乗ることだ。
連絡先を書くことだ。

それが、まともな話なら黙って聞くようにする。

つまらんことでケンカ売るなよ。

あ~あ、あほらしやの鐘が鳴る。

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プロレスという競技


プロレスラーであり、興行団体「NOAH」の社長でもあった三沢光晴選手が13日、広島グリーンアリーナで行われた試合中に頭を強打し病院に担ぎ込まれた。

搬送先の病院で22時10分に死亡が確認。
享年46歳だった。

近年、プロレスを経営者としても、選手としても牽引してきた男の突然死は、格闘界に大きな影響を与えるだろう。

いま格闘界と書いたが、プロレスとヒーローやK1やプライドなどの他の格闘技とはかみ合わない異質のものだ。

プロレスには八百長があるという意見をよく聞くが、そうではない。
プロレスは唯一見せる格闘技なのだ。
ほかの格闘技にはその「見せる」要素においてプロレスと大きく違う。

もちろん格闘技には見せる要素が十分にあるのだが、プロレスはその要素をさらに進めた。
つまり、プロレスは相手の技を受けて見せるのだ。
そのための身体作りをするし、そのためにかけるほうの側もある程度の加減をしたりする。

そのことを八百長というのはどうだろうか。

相手の技を受ける危険性は、今回のバックドロップで哀しい証明を見せたが、これこそがプロレスでほかの格闘技とまったく違う種類のものだということを示している。

そのことを考えてプロレスは論じられるべきで、どちらが強いかなどという議論だけではプロレスには通じない。

もちろんそれであってさえ、十分なる格闘技なのだ。

三沢選手の冥福を祈る。

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何かを書くということ

何かを書いてしまうと、書いたことが実際にあったこと、実際に思ったことと思われることがしばしば生じるが、そういった想像があたるほど書き手は単純ではなく、悪巧みに長けている。

長けてはいるが、実際にあったこと、思ったことを書いたと思われるのもしゃくで、書くのが億劫になってしまうこともある。
けれどもそれは見栄であって、文章は見栄で書くものではない。

おそらく文章に限らず、作品に見栄が入ってきたとき作品は穢れるのだろう。
もちろん評価されるのはうれしいだろうが、そのために媚びるとすれば、作品を仕上げる能力の中で肝心なところが欠けていると思っておいたほうがいい。

それでも誰かの目が気になることはあるだろう。
それとこれとは別だろう。

「あなたはもてるから」
「…けれど、肝心な人にもてなくてね」

昔読んだ黒岩重吾の作品中に出てくる。
作品と観る人の関係もそんなところで、大向こう受けを狙う人ばかりが作品を作っているわけではない。

観てが、自分自身ということもあるしね。

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将棋棋士や落語家を眺めてみていると

将棋棋士や落語家を眺めてみていると、ふと昨日思ったことに行き当たる。

「生きていることを忘れるような作業に勤しんでいたいと思うのが切なる願いだ。」

何ぞと書いてはみたが、よくよく見ると棋士や落語家で、「なんであんなものに」などと思うほど本気になってやっている人は生きていることは忘れているように見える。
忘れてはいないかもしれないが、二の次になっているだろう。

それでいいのだろうなとしみじみ思う。

そうなると、己にも何かしら、どうなってもいいやと思えるほど自分をつぎ込めるものにぶち当たるしかない。
なに、実のところは遠い昔より、それらしきものに、ぶち当たってはいたのだ。

酒や、ばくちや女や何ぞで気散じをしているものだからこのていたらくという始末。
ばかぁは、しょうがないものだと、思い当たる。

思い当たっただけまだ生きていけるのかもしれないとも思う。

おもしろいものだ。

生きることを捨てたときに生きていけるというのだから。

そういやぁ、夏の木陰に吹いてくる涼しい風を「地獄のあまり風」といったりする。
本当は、「極楽のあまり風」というが、ここは「地獄のあまり風」としゃれてみたい。
でないと、口に出す気にゃあなれない。

いい人たちは自分がいい人であるためにとても悪いことをする。
それでも多くの人は、ひどい彼らをいい人と呼ぶ。

そういう世の中に「極楽のあまり風」なんぞ吹くものかねえ。

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2009年6月13日土曜日

とはいうものの

おもしろき こともなき世を おもしろく

       すみなすものは  心なきけれ

下の句は当時、看病していた野村望東尼(=おうの)が「すみなすものは心なりけり」とつけたといわれてもいるが、どちらにしても高杉晋作の辞世の句としてよかろう。(さらにすでにこの句は死ぬ前年には上の句をすでに作っていたという説もあるが、それでも高杉の気分は辞世の句であろう)

享年27歳、肺結核の死である高杉にとって、人生は短く華々しかったものであろう。
そういう高杉の諧謔の句としてはおもしろいが、わたしのように長生きをしてしまえば、なるほど、なるほどとうなずいてばかりは入られない。

心の持ちようをいくら変えてみたところで、長生きしすぎている事実には対抗できないように思う。
あまりこまごまと考える性癖のせいでもあろうが、生きていることを忘れるような作業に勤しんでいたいと思うのが切なる願いだ。

お察しのとおり、大変に調子は悪く。
暗闇の中で呆然としている。

夜明けが来るなど信じる気もしない。

以上、暗闇の中で、手探りで書き留めておく。

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2009年6月12日金曜日

個人の情報

たまに「MIXI」なぞをのぞくと、ブログも同じようなのだろうが、自分があれしたこれしたということが書かれてある。
そういうことを他人が喜んで読むという信頼の神経がわからない。

で、実際は、まさに他人様はそのああしたこうしたの文章を読むのだ。

そこで、それを読む人の神経もわからなくなってくる。

けれど、そういうものに目がいくというのが正常な神経だとしたら、わたしなどはきわめて異常な感覚の持ち主ということになる。

そういえば、この人はどうして話の落ちもない自分のことをこんなにとうとうと語るのだろうと思ったことが過去に何度もある。
実は、そういう風に語るのが通常の姿勢なのかもしれない。

わたしには、わたしの情報を聞いてくれる人はいない。
そう固く信じている。(うそなのだろう)

だって、そうだろう、わたしがどこで何を食べて、どんな人とあって、どうやって野垂れ死んでも、誰がそんなことに興味を持つ?
オレよりひどい状況のやつもいるんだな程度ではないか。

こんな風に思うこと自体が、わたしの病かもしれない。

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2009年6月11日木曜日

外のものにはなんらの興味も

己の外のものにはなんらの興味もわかないわけだから、生きていこうとする意志などわきはしない。
かといって向いている己の中などは、自罰的な興味でしかなく、単に嘆かわしいだけで、ひたすら眠りを恋する。

鬱の状態をある方向から描いてみればこのようなものか。

よくブログの中で取り上げるように意味は己が色づけするものだから、その色づけする意欲が自分になくなってしまった状態では、自分の外部に手が伸びることもなければ、外部に目線がいくこともない。

わたしが、くだらぬテレビを見てすごすのはそういう状態であっても何とかこなしうるだけの情報しかテレビが、つまりはやつらが発しえないからである。

見方を変えれば、それほどまでに希薄なものを発し続けるのが、テレビであり、そのテレビに慣れ親しんでしまった人々に外部に対するそれ以上の意味づけをする力は残っていない。

そのためにテレビの中でされるあらゆるコメントは、素人、玄人問わず(それで金をもらっているかどうかだけだが)常に希薄である。(もちろん例外はあるが、それはあなたが探し出せばいい。探し出せばいいが、探し出すのには苦労する。それならば、テレビ以外に探すほうが効率はよいだろう)

そういうわけで、うつ状態が続く人間にとって、外部はなんらの意味はなくその外部と連結して生きる自分にももちろん意味はない。
意味がないところにいごごちのいい場所はなく、頭を抱えてうつ状態が過ぎ去るのを待つしかない。

これに失敗すると自殺ということになる。

意味ない世界には存在意味もないからだ。

ただ、このごろときどき思うのだが、意味などなくても生きていける方法があるのではないかと。
ただなんとなく、ふらふらふらと生きていける方法がるのではないのかと。

つげ義春の「無能の人」などを眺めているとそんな気もしてくる。

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日本語で考える

わたしたちが考えるとき、たいていは日本語で考える。
わたしたちの多くは、日本語が曲がりなりにも使えるから、それをいじくりまわしていると何かしら考えた気になってくる。

けれどもどうやら「考える」という好意はそんなに近場には住んでいないらしい。

そういうことに気づくことがある。
もちろん気づかない人もあって、そういう人は幸せなまま日々無批判に、考えた風なことを誰かにしゃべって悦に入っている。

「考える」行為は、そんなに近場に住んでいないし、日本語を弄んでいても何も生まれはしない。
「考える」行為にはその意味であまり近づかないほうがいいし、近づかないで住んでいたほうが安楽だと思えるようきな臭さがある。

そこで生まれるのが、自分に興味のあることだけを考えようという発想だ。
自分に興味のあること以外は、どうでもいいし、どうでもよくはなくなったときに考えてみればいい。
そういう気楽な態度を思うことになるだろうが、それでいいと思う。

そう考えてみれば、なにやら難しげに考えている人間の話にも興味はわかなくなるだろう。
その話がどんなに日本社会にとって、拉致問題にとって、パレスチナ問題にとって、国際情勢にとって大切なものであっても、自分には何の興味も起こらなければ、それはしかたない。

それがキミの意識の低さだとなじられようとも耐えていこうではないか。
もし、そこでその非難に屈するのであれば、そこから考えればいい。
そのときの思考には、多くの情報が必要になるし、情報の取捨選別や、情報への重みのつけ方も必要になるだろう。

しかし、それは仕方がない。
その対象にあなたが興味を抱いてしまったのだから。

ここでの本当の問題は、その問題に興味を抱いたあなたが本来のあなたであったかどうかだ。

別に社会的に大きな意味のあることだからといって、興味を抱かなくたっていいんだぜ。
あなたにはあなたの興味がある。

たとえば、わたしは市川雷蔵に興味を惹かれるが、市川雷蔵が気になるのはわたしの勝手で、何の正当な根拠もない。

あなたの持つ興味もそんなもので、そういう興味の海の中であれこれ考えることが愉快なことで、誰かから与えられたことを考えるのは、あまり楽しくないのではないか。

それに、誰かから与えられた課題には往々にして正解がある。

「考える」という行為は「正解」にたどり着く過程にあるものではないということは、わたしでもはっきりといえることである。

むしろ、「考える」ことは「正解」から逃れる行為ではないのではないのだろうか。

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2009年6月10日水曜日

本日で777本

つまらん数字の羅列のように思えるが、一度は感動してもよかろうもん。
そうしてすぐに忘れればいい。

さきほどのブログで777本のブログを書いたことになる。
「絶望」というタイトルがいかにもわたしに似つかわしい。

この「絶望」を食い破る意味をわたしは持ちうるのか?
お蚕様が桑の葉をひたすら食いちぎり食べていくような意味をわたしはもてるのだろうか?

ま、とにかく、777本は書いてきたわけだ。
どのような内容であっても、日記とは一風違ったわたしのブログを書き綴ってきたわけだ。

小さな記念として、ここに記す。

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絶望


あの「夜と霧」の作者フランクルが、

絶望=苦悩ー意味

というようなことを書いている。

意味をもつ苦悩であれば絶望には至らないのだろう。
別のヶ所でその結果、死んでいく人間の特徴を希望を持っている人間かどうかで言及している。

希望を持つことこそが、意味の持つ効用であるのだろう。

だとすれば、わたしのようにあれこれ言わずに単純に何かの意味に頼ったほうがずっといいように思う。
意味に拘泥すれば意味を持つ行為から遠ざかり、絶望へ近づいてしまうではないか。

くりかえすが、人は自死する自由を持つ。
しかしながら、それは何者かに(社会も含めて)追い込まれた末のものではない。
ならば、自爆テロのほうが、いくらも人間的らしい。
(そのためにはイスラムという意味を自分の中に植え付けねばならないのだろうが)

意味にこだわる必要はあるが、そのことにこだわりすぎて、絶望にいたっては哀しすぎる。
人生の途中として、便宜的に意味を持つことは重要だ。

そして万が一、自分の抱いた意味が途中経過の意味だと自覚できているとき、あなたは再びあなた自身のの意味を持つ可能性をその手にもつことも出来るだろう。

絶望=苦悩ー意味

という公式を知るとき(それをフランクルはアウシュビッツで知るのだが)、うかうか悩んでもおられまいと思う。

いわば、意味を探す旅は、とても贅沢な作業のように思える。
それが、どれだけ大事なものだとしても。

だとすれば、その贅沢と絶望からの脱出にどう折り合いをつけたらいいのだろうか。
滾々と新たな疑問はわき出でている。

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2009年6月9日火曜日

欝であること

外からは見えない精神の病には、これでもかと責めてくる無頓着な人間がいて、どこかに閉じこんでしまいたくなることがある。
そういう状況をわたしも迎える。

わたしの場合は、たいていは、酒がらみで、大酒した酒が切れ始めると何日か欝状況が訪れる。
だったら、酒をやめればいいのだが、これがなかなかうまくいかない。
一ヶ月くらいは止められるのだが、またしても飲む機会が生じる。

飲み出せば、地獄だ。

この連環を崩さねばならないのだが、崩し方に二種類ある。
まったく酒を断つか、飲み続けるか。

いや、もう一つあるのかもしれない。
このままの状態の自分を社会に認めさせるというような道だ。

どちらにしても、うまく生きられるようには出来ていないらしい。
ふと、こうやって、暗くなる。

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雷蔵好み


「雷蔵好み」は村松友視の書いた評伝である。

村松友視氏の書く評伝の質は高い。
質の高さは彼の人を見る目線に確かさがあるからだろう。

特にこの「雷蔵好み」は市川雷蔵と村松友視の人生に重なるものがあり、一流の読み物になっている。
市川雷蔵に少し遅れて映画界に入ってくるのが、勝新太郎であり、勝は市川雷蔵に対しライバル心を燃やしたらしい。
が、そのライバル心は憎しみにつながるものではなく、どこかに仲間意識を持っているものだったという。

この本のなか、その勝と雷蔵の比較に雷蔵の姿はよく現れていると思う。

雷蔵が、なぜあれほどまでに酷薄を演じていながら、やさしげであったかは、この評伝に詳しい。
歌舞伎から始まる雷蔵の人生は、すでにそれ以前に不自然な様相を呈している。
その不自然さの受け取り方に雷蔵があり、そのありように作者村松友視には自分が見え隠れするのだろう。

確かに、スターというものがあったころも、タレントとなってしまった今も、雷蔵のような心持で人生を紡いでいった人は少なかろう。
おそらくは、指をひとつも折れないかもしれない。

そういったものが、今でも雷蔵の映画を眺めるときに静かにこちら側へと流れてくる。
雷蔵はたゆまなく静かにその泉からの水を湧き出させ続ける。

いまだに雷蔵が人の言の葉に上るのはそういったことなのだろう。

雷蔵は早世する。
1969年、市川雷蔵は37歳で肝臓がんのため、この世を去っている。

不世出といっていいのかもしれない。

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出合いは一部

何かと出合うということを書いてはきたが、そういう出合が人生のほとんどを占めるということはない。
人生の大部分は、ただなんとなくだらだらと続いているものだ。
続いてはいるが、そのだらだらにもしっかりとした色をつけることは出来る。

わたしはしっかりとした色をつけるタイプではない。
自堕落といったほうがいい。
その挙句に出合うこともなくなってしまう。
そういう危険性を持っている落ちこぼれだ。

ねがわくば、だらだらと続く人生の大きな部分にも飽きることなく自分の色をつけながら生ききっていってほしい。
出合はそういう日常に訪れるように思う。

少しも代わらぬ日常の連続の中で人はなにかを見る目を鍛えるのかもしれない。
突拍子のない天才が、ごろごろところがっているわけではない。

何の変哲もない日常が、ごろごろと転がっており、そういった日常の中に意思を持った日常もあるということだろうか。

華やかな結末ではなく、そういった日常に目を向けていたい。

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2009年6月7日日曜日

わが庭では


わが庭では紫陽花が咲き、そのまわりにドクダミが群生する。
ドクダミの生命力には驚く。

あれは、何かのために生きていることのない強さだろうか。
生きることに意味を求めるものの弱さよ。

そういえば、死にいく姿として、虫の姿がもっとも美しいといった人がいたが、あれは至言かもしれない。

意味を求める弱さについてもいずれ考えねばなるまい。

意味を離れれば、わたしも強くなれるかしら。

ドクダミを眺めながら、ふとそう思っている自分に気づく。
日曜の朝だもの。

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ウズベキスタン戦

めったに日本を応援することのないわたしだが、昨日のサッカー、ウズベキスタン戦の審判はひどかったね。
あの判定に耐えて、よく勝ったと思う。

その精神の落ち着いたありように痛く感じ入った。

日本サッカーは強くなっている。

そして、普段あまり感じないわたしでさえ、ああいう判定をされると思わず日本を応援してしまうことに驚く。

これが国際情勢で何かが起きたとしたら…
やはりわたしも愛国的に動くのかもしれない。

昨夜は、ひさしぶりに腹がたった。

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えらそうに書いてはみたが

ここ二回ほど、えらそうに書いてはきたが、実生活はひどいものだ。

酒、歌、煙草、また女
外に学びしこともなし

若き佐藤春夫は詠ったが、そしてそれをわたしの愛する石和鷹もことあるごに口にしたが、わたしは、もはやそのいずれにも心惹かれない日々が続いている。
生きる力が失せ始めているのだろう。

認識も仮想もあったものではない。

こういうときに活を入れるのは、七面倒くさい理屈ではなくもっと単純な何かだろう。
それは何なのかと問われるだろうが、実はわたしにもそれが何かわかっていない。

こういうときはただ待つに限る。
何かが訪れるのを待ち続けるしかない。

そのときに何をしながら待ち続けるかに「その人」が表れるのかもしれない。

というわけで、この二回ほどのブログは、そういう状態の人間のうめきとでも読んでいただけると気が楽になる。

随分とえらそうな書きぶりをして、大変失礼をいたしました。
ご海容ください。

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自分であること

先のブログでは十分ではないので、このことに関しては、随所に書き加えるという形を取りたい。

まず、自分の持つ仮想と自分であることとはかなり密接に結びついているだろう。
しからば、その仮想は自分自身で作り出さなければならないだろうという結論にはなる。

けれども、その作業は一から始めるものではない。
わたしたちは、多くのものに影響される。
それは直接的に誰かの言葉を(その本人から直接に、書物から、講演で…)聞くことで、何かを見ることで、(映画を、草花を、ある人の生きる姿を…)影響される。

そのことを恐れることはない。

いまや人はあらゆるものから影響を受ける。
そのときにその影響を自分の中に何の疑いもなく取り入れるか(それではある種の洗脳になるかもしれない)、影響を受けたものと戯れ自分の血肉化としていくか、そんなに大仰に言う必要はない、自分の考えとして持っていくかすれば、それはもはやあなたの内実だ。

この部分は、あまり厳密になる必要はない。
早急に影響されないだけの「ため」さえあれば、もはやそれはあなた自身のものだし、そのようにあなたの仮想は作られる。

それでも仮想には個人差ができる。

それがあなた自身だと信じて、心配することはない。

それでもあなたは十分に個性的だ。

ただ、出来ることなら何にに影響されているかは知っておく必要がある。
時に自分の偏向を知ることは大きな力を持つ。
(これは、人が偏向を持つことを支持しているわたしの考えだ。人は偏向を持たざるをえない。問題はその偏向を意識できているかどうかだ)

というわけで、あなたを動かすものにうまく出合えることをわたしは願っております。

さらに、つけ加えておけば、人と人はわずかな仮想の一致で連帯を組むことが出来る。
何もかもが似ている人とでなければ気が合うことはないというのはまやかしだ。
われわれはそんなに厳密には出来ていないのだよ。

人と人の出会いは肝心な部分での意気投合だけで十分なのだと思う。
そして、それが、淡交であれば、これに勝るものはあるまい。

けれども、ときには、自分を失うまで酒を酌み交わしたく思うこともあるけれども。

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2009年6月6日土曜日

何かを知ること

認識とは現実(今ここにあるもの)と仮想(今ここにないもの)との出会いだという考え方がある。
仮想(今ここにないもの)はどこにあるかといえば、あなたの胸のうちにある。
言い方を変えればあなたの頭の中にある。

この考え方をさらに進めれば(もちろんわたしの好きなように自分勝手に進めればという話だが)以下のように展開される。

展開された話はいつもわたしのする話だ。
自分にとって気になる話(大事に思っているということなのだろうが)は、そうそう変わりはしない。
ころころ話が変わる人間には、所詮、大事なものがないのだろう。

大事なものがないと困るか?

いや、困りはしないだろう。
困りはしないが、流されるだろう。

あれやこれやに流された結果、自分が何者かわからなくなっていくだろう。
その結果、自分が何者かわからない状態になっているのもわからずにただのうのうと生きていく。

そのとき、わたしは思う。

それがあなたが生きているということなのかと。
だが、すでにそのときには、わたしは、その人から心は離れているから、実際にその質問をその人にコトバとしてぶつけることはない。

無関係とはそのような状態を言う。

さて、元に戻って、仮想を持たなければというところからはじめたい。

仮想を持たなければ現実は無防備な状態のあなたを侵し始める。
侵されては困るのであなたは何とか仮想を持とうとする。
けれども仮想はない。

となれば誰かに仮想を提供してもらうことになる。
その結果、多くのステレオタイプの人間が生まれる。

過剰な情報に支配される映画を見て喜ぶような、何を見ても「かわいい」というような、作り上げられたような人間になっていく。

その状態は少し高級そうに見えても同じことだ。

モチベーションを上げて仕事に打ち込もう。
もっとセレブになりたい。

同じことだ。

問題は、その仮想をあなたが作り上げているかどうかだ。

では仮想はどのように成り立つかだが、これはごくごく単純な作業による。
自分の感じたことをそのまま受け入れる、そんな作業で決まる。

たとえ感じたその内容がいかに非科学的でもあなたがそれを信じたならば、それに惹きつけられたならば、そのことを大切にする。

この作業以外に自分の中に別の世界を生み出すことはできない。

その結果、あなたなりの好きなものが生じ、惹かれるものが現れる。
そして、あるときそれが現実と出合ったとき、愛が生まれる。

愛とは自分の内部と現実の感応だ。

その意味であらゆる出合いは幻想に過ぎない。

幻想に過ぎないのだが、その幻想のなんと尊く美しいことか。

人は、時として、この幻想のために、人生を棒に振る。

美しい人生の葬り方だと、わたしには見える。

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2009年6月5日金曜日

陸軍中野学校 雲一号指令


中野学校シリーズの第二作である。

「雲一号指令」の「雲一号」が、なんともいえんですなあ。
次作品は「竜三号指令」となる。

この作品もまた軽々しくなくてよろしい。
軽々しくないためには、まずセリフを絞り込むこと。
セリフでべらべら説明されてもねえ。
「ルーキーズ」じゃあるまいし。

そういえば、このごろの映画は(もちろんテレビはもっとひどいけど、その点向田邦子はドラマをよく知っていたねえ)よくしゃべらせるし、俳優、女優を泣かせる。
あんなことするもんじゃない。

映画は映像なんだから。
それを生かすのに音楽が入りSEが入る。
市川雷蔵もアップを嫌ったみたいだね。
ときに監督にロングをした要求したらしい。

もっとも彼は三島由紀夫に「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい」といわせたくらいの男だから。

残念ながら詳しく書くには、さらにもう一度調べなおさねばならないが、雷蔵はいいよ。
ああいうタイプは、いまはいないね。

もちろん、ほかのタイプで優れた人はいる。
山崎努とかさ。

ところで、雷蔵は相撲をよく稽古したらしい。
そういうところが映画の中にも見える。

歩く姿がいいのだ。
歩く姿のいい役者。
これは本物だ。

本物を見るのは、なんとも快感だなあ、それも雨のそぼ降る宵にさ。

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ざっくり

「ざっくり」というコトバが嫌いである、というより耳障りだ。
どいつもこいつも(失礼!)よく使う。
たいていは少しインテリぶっている連中だが、彼らはコトバの恐ろしさを知らない。

「ざっくり」というコトバ自体に実は罪はない。
「ざっくり」自体ではなく、あなたが使う「ざっくり」というコトバで言い表されることが可哀想ではないかということを言っている。

たとえば、「かわいい」と言う。
なんでもかんでも「かわいい」と言う。
あの花が「かわいい」と言い、あの赤ちゃんが「かわいい」と言う。
けれどもあの花のかわいさとあの赤ちゃんのかわいさが同じわけはない。
かわいさは違うはずだ。

しかし、あなたが「かわいい」と言ったときにその対象のかわいさの差異はなくなる。

それがコトバの持つ暴力だ。

男はみんなスケベだと言う。
それはそうかもしれない。
しかし、わたしのスケベさとあなたのスケベさは違う。
それを「スケベ」と言うコトバは一緒くたにしてしまう。

大切なものはその差異に潜む。
その差異を同化して見えなくしてしまうものがコトバの持つ属性なのだ。(正しくは属性のひとつなのだ)

そのことをわたしはコトバの持つ暴力と呼ぶ。
その暴力が成立するのは思慮のなさ分別のなさから来るものだろう。

一度思慮深い人の話し方に耳を澄ましてみればいい。
とても細やかにコトバを使おうとする意思が見える。(実際に使えているかどうかは別にして)

だから、「ざっくり」と言いたければ言ってもいいが、それは「ざっくり」と言う表現にあてはまるときにしてほしい。
そうでなければ、あまりに思慮が浅すぎる。

コトバは発してしまえば、発した対象への思考をとめる。

ある草花を美しいと思ったとしようか。
そのとき「美しい」とコトバを発したとしよう。
直ちにその花への視点は曇り、思考は停止する。
そういう面がコトバにはある。

ただ眺めていればいいと言うのはそのことを思っての発言だ。

コトバを恐れながら、それでいてコトバに寄り添いながら、コトバを使い、語り合おうではないか、なあ、友よ。

ラベル:

陸軍中野学校


実際の中野学校ではない。
映画の話である。

日本陸軍の諜報員養成機関といわれる陸軍中野学校の実態とその活動を描く邦画。
スパイ映画という邦画では珍しいジャンルで、66年~68年にかけて5本製作されている。
市川雷蔵の現代劇での代表作と言われる。

その第一作を見た。

それがよかった。
主人公の市川雷蔵がいいのはともかく(私は彼のディープファンだ)、彼のナレーションが抜群に映画を引き締めている。
寡黙な映像なのだ。

そしてなんとも哀切な物語とその哀切さに似合うカメラワークが光る。
こういう日本映画を撮っていたのだといまさらながら文化に直線的な発展がないことを感じる。

ヒロインとして小川真由美が出てくるが、彼女演じる布引雪子もまた哀切きわまる。
彼女の持つ心情をわずかながらも心の奥で感じるようになったのがわたしの成長といえるのだろうか。

ずいぶん金と時間をかけた成長だった。

彼女は、最終的に椎名次郎に殺されるが、それがなんともやさしい殺し方だった。
「キリング ソフトリー」と唄うが、あのように殺されるのなら、わたしにもそうしてもらいたいものだ。

名作といっていいのかもしれない。
ご高覧あれ。

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2009年6月4日木曜日

もうボロボロ

パソコンの調子が悪くなり、メーカーに問い合わせてもらちが明かず、とうとうパソコンを初期化することになってしまった。
本日は、今まで何がなんだかわからない作業をし、その結果何が復旧されるでもなく、あらゆるデータは消え、便利さが悪魔のようにわたしに襲いかかってきた。

これでしばらくは、知人に連絡も取れないし、(アドレスがわからないからね)なんともはや、やるかたなし。

データ保存はやっておかねばならないのだと思うのだが、どうやっておけばいいものだろう。

また一からパソコンと付き合うのかと思うと頭が痛い。
幸いブログだけはインターネットに登録してあるのでこうして書けるわけだが、それにしてもねえ…

パソコンは怖い。

いつ機嫌が悪くなるかわからない。

えっ、そんなものいくらでもあるって。
まあ、そう言えばそうなんだけどね。

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2009年6月3日水曜日

三本並べてみれば




「マジェスティック」という映画を見た。
とても心にしみる映画で、そんな心にしみるなんてことはこのところなかった。

そしてその後にわかった。

「ショーシャンクの空に」(1994)
「グリーンマイル」(1999)
「マジェスティック」(2001)

みんな監督はフランク・ダラボンだった。

むかし、「グリーンマイル」を見た後に「ショーシャンクの空に」を見ておけばこの映画は見なくてもいいだろうなと思ったことがあった。
それは、監獄を題材にした映画だからふと脳裏をよぎった比較だと思っていたが、そうではなかったらしい。

「マジェスティック」をみるとき、フランク・ダラボンがどういう監督なのかがほのかに見え始めてくる。
見え始めたとき、「グリーンマイル」と「ショーシャンクの空に」を比較した自分の愚かさに行き当たる。

あの二つの作品は、比較するものではなかったのだ。

あれもこれもフランク・ダラボンの願う世界だったのだ。

ああ、こういうふうに作品は重ねていくものなのかということをダラボンに教えられた。
そして愚かなわたしはわずかながら作品とどうつきあいながら作っていくかということもダラボンに教えられた。

三本の映画を見ながらそう思う。

人の意思の表し方は、なかなかに切なくて、しかも頼りになるものだとしみじみ思う。
わたしはこの人を信用している。

最新作「ミスト」はさておいての話としておくけれど。

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デンゼルなら



「デンゼルならオスカーを三つもらっていても不思議はないわ」

ジュリア・ロバーツのコトバである。
わたしもそんなふうに思う。

そういえば、ジュリア・ロバーツはわたしが昔ほれた女に似ている。
その女はジュリア・ロバーツと同時にキアヌ・リーブスにも似ていた。
(どうでもいい話だが…うそつきだった)

そのデンゼルも出ている「ペリカン文書」をまた見た。
二度目だと思う。
ついでといってはなんだが「ダラスの熱い日」も見た。

作り物であることをさっぴいてもアメリカという国は陰謀渦巻く国であることよ。
それはあの国がモザイク模様になっているからだと思う。

モザイク?

そう、それはアングロサクソンとかブラックとか韓国とか中国とかイスラエルとかイタリアン、ロシア…そういう連中が徒党を組んでいる。
その意味でのモザイクだ。

日本にも陰謀はあるのだろうが、モザイクが単調であるだけにその根深さに欠ける。

二つの映画を見たが、どちらも恐ろしい。

そういえば、わたしのひいきにする「プリズン・ブレイク」も基本に陰謀があるな。

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2009年6月2日火曜日

北朝鮮に翻弄される

北朝鮮に翻弄され続ける日本だが、相手の意図がわからないのに推測したり動き回ってもどうなるのもではない。
これは個人関係とまったく同じだ。

相手の意図がわからなければ何の対策も立てられない。
もしもこちらに絶大なる軍事力があれば違うことも生じるが(イラクに対したアメリカのように)。

今日は、今日とて北朝鮮の後継者問題と日本海に向けてのミサイル発射準備で騒いでいるが、これとても北朝鮮の意図など勘ぐっても仕方ない。
相手は別の方式で動いている。

とにかく相手は特別なのだ。
特別だからこちらの常識的な発言が届くわけもない。

ではどうするか?

ここからが政治の問題になってくるが、ここから考え始めている政治家がどれほどいるのか。

ついでに言っておけば、北朝鮮動揺ロシアも恐ろしい。
麻生何某は何故に南樺太で会談をやったか?

バカだからか?

間違いなくそうだと思う。
今やロシアの力は想像を絶する。
それはエネルギー供給での潤沢な利益とその軍事的に強硬的である態度をバックにする。

あんまりあほ面で付き合っていると何をされるかわかるまい。
北方四島の返還どころではない。

ご存知だろうかロシアの戦闘機が頻繁に日本の領空侵犯をやっていることは。(それを日本は指をくわえて眺めているのを)

自分の信じるルールが世界を仕切っているなんぞとどこぞの甘ちゃんは考えているらしいが、そういうことは国際政治では起こらない。

見ているがいい。

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