絶望
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あの「夜と霧」の作者フランクルが、
絶望=苦悩ー意味
というようなことを書いている。
意味をもつ苦悩であれば絶望には至らないのだろう。
別のヶ所でその結果、死んでいく人間の特徴を希望を持っている人間かどうかで言及している。
希望を持つことこそが、意味の持つ効用であるのだろう。
だとすれば、わたしのようにあれこれ言わずに単純に何かの意味に頼ったほうがずっといいように思う。
意味に拘泥すれば意味を持つ行為から遠ざかり、絶望へ近づいてしまうではないか。
くりかえすが、人は自死する自由を持つ。
しかしながら、それは何者かに(社会も含めて)追い込まれた末のものではない。
ならば、自爆テロのほうが、いくらも人間的らしい。
(そのためにはイスラムという意味を自分の中に植え付けねばならないのだろうが)
意味にこだわる必要はあるが、そのことにこだわりすぎて、絶望にいたっては哀しすぎる。
人生の途中として、便宜的に意味を持つことは重要だ。
そして万が一、自分の抱いた意味が途中経過の意味だと自覚できているとき、あなたは再びあなた自身のの意味を持つ可能性をその手にもつことも出来るだろう。
絶望=苦悩ー意味
という公式を知るとき(それをフランクルはアウシュビッツで知るのだが)、うかうか悩んでもおられまいと思う。
いわば、意味を探す旅は、とても贅沢な作業のように思える。
それが、どれだけ大事なものだとしても。
だとすれば、その贅沢と絶望からの脱出にどう折り合いをつけたらいいのだろうか。
滾々と新たな疑問はわき出でている。
ラベル: 作品
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