何かを知ること
認識とは現実(今ここにあるもの)と仮想(今ここにないもの)との出会いだという考え方がある。
仮想(今ここにないもの)はどこにあるかといえば、あなたの胸のうちにある。
言い方を変えればあなたの頭の中にある。
この考え方をさらに進めれば(もちろんわたしの好きなように自分勝手に進めればという話だが)以下のように展開される。
展開された話はいつもわたしのする話だ。
自分にとって気になる話(大事に思っているということなのだろうが)は、そうそう変わりはしない。
ころころ話が変わる人間には、所詮、大事なものがないのだろう。
大事なものがないと困るか?
いや、困りはしないだろう。
困りはしないが、流されるだろう。
あれやこれやに流された結果、自分が何者かわからなくなっていくだろう。
その結果、自分が何者かわからない状態になっているのもわからずにただのうのうと生きていく。
そのとき、わたしは思う。
それがあなたが生きているということなのかと。
だが、すでにそのときには、わたしは、その人から心は離れているから、実際にその質問をその人にコトバとしてぶつけることはない。
無関係とはそのような状態を言う。
さて、元に戻って、仮想を持たなければというところからはじめたい。
仮想を持たなければ現実は無防備な状態のあなたを侵し始める。
侵されては困るのであなたは何とか仮想を持とうとする。
けれども仮想はない。
となれば誰かに仮想を提供してもらうことになる。
その結果、多くのステレオタイプの人間が生まれる。
過剰な情報に支配される映画を見て喜ぶような、何を見ても「かわいい」というような、作り上げられたような人間になっていく。
その状態は少し高級そうに見えても同じことだ。
モチベーションを上げて仕事に打ち込もう。
もっとセレブになりたい。
同じことだ。
問題は、その仮想をあなたが作り上げているかどうかだ。
では仮想はどのように成り立つかだが、これはごくごく単純な作業による。
自分の感じたことをそのまま受け入れる、そんな作業で決まる。
たとえ感じたその内容がいかに非科学的でもあなたがそれを信じたならば、それに惹きつけられたならば、そのことを大切にする。
この作業以外に自分の中に別の世界を生み出すことはできない。
その結果、あなたなりの好きなものが生じ、惹かれるものが現れる。
そして、あるときそれが現実と出合ったとき、愛が生まれる。
愛とは自分の内部と現実の感応だ。
その意味であらゆる出合いは幻想に過ぎない。
幻想に過ぎないのだが、その幻想のなんと尊く美しいことか。
人は、時として、この幻想のために、人生を棒に振る。
美しい人生の葬り方だと、わたしには見える。
仮想(今ここにないもの)はどこにあるかといえば、あなたの胸のうちにある。
言い方を変えればあなたの頭の中にある。
この考え方をさらに進めれば(もちろんわたしの好きなように自分勝手に進めればという話だが)以下のように展開される。
展開された話はいつもわたしのする話だ。
自分にとって気になる話(大事に思っているということなのだろうが)は、そうそう変わりはしない。
ころころ話が変わる人間には、所詮、大事なものがないのだろう。
大事なものがないと困るか?
いや、困りはしないだろう。
困りはしないが、流されるだろう。
あれやこれやに流された結果、自分が何者かわからなくなっていくだろう。
その結果、自分が何者かわからない状態になっているのもわからずにただのうのうと生きていく。
そのとき、わたしは思う。
それがあなたが生きているということなのかと。
だが、すでにそのときには、わたしは、その人から心は離れているから、実際にその質問をその人にコトバとしてぶつけることはない。
無関係とはそのような状態を言う。
さて、元に戻って、仮想を持たなければというところからはじめたい。
仮想を持たなければ現実は無防備な状態のあなたを侵し始める。
侵されては困るのであなたは何とか仮想を持とうとする。
けれども仮想はない。
となれば誰かに仮想を提供してもらうことになる。
その結果、多くのステレオタイプの人間が生まれる。
過剰な情報に支配される映画を見て喜ぶような、何を見ても「かわいい」というような、作り上げられたような人間になっていく。
その状態は少し高級そうに見えても同じことだ。
モチベーションを上げて仕事に打ち込もう。
もっとセレブになりたい。
同じことだ。
問題は、その仮想をあなたが作り上げているかどうかだ。
では仮想はどのように成り立つかだが、これはごくごく単純な作業による。
自分の感じたことをそのまま受け入れる、そんな作業で決まる。
たとえ感じたその内容がいかに非科学的でもあなたがそれを信じたならば、それに惹きつけられたならば、そのことを大切にする。
この作業以外に自分の中に別の世界を生み出すことはできない。
その結果、あなたなりの好きなものが生じ、惹かれるものが現れる。
そして、あるときそれが現実と出合ったとき、愛が生まれる。
愛とは自分の内部と現実の感応だ。
その意味であらゆる出合いは幻想に過ぎない。
幻想に過ぎないのだが、その幻想のなんと尊く美しいことか。
人は、時として、この幻想のために、人生を棒に振る。
美しい人生の葬り方だと、わたしには見える。
ラベル: 日常 考察
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