ぼんやりと愛される
ぼんやりと愛するのは愛する側の度量を問われるところだが、愛される側にも「ぼんやりと愛される」資格はいる。
言ってしまえば、わたしにはないが中島らもにはある資格だ。
ユーチューブの「中島らも」はいま充実している。
それを眺めていると、こいつほんまにしょうもないなと思うが、同時に見過ごせないコトバや姿を次から次へと提出してもくる。
わたしの言うところの生きる姿への色付けがかなり巧みなのだろう。
しかし、常にすばらしさを強調しようとする男ではなく、むしろしょうもなさを愛した男であるからこそ、他者から降り注がれる愛はぼんやりとしている。
もっとはっきり言えば、ぼんやりとしっかりしている。
その「ぼんやりしっかり」は中島が演出し、周りの人々がそれにあわせ演じてくれた幸せである。
こういう人物を見ると、わたしの人生の貧困さに思い当たる。
(こう見えて、随分とないものねだりをするつまらぬ男なのだよ)
ぼんやりと愛されたいと思う。
そういう周りにとりまかれたいと思う。
そう思いはするが、わたしのほうは、少しカッコをつけすぎかもしれない。
色づけとは言うものの「ぼんやりしっかり」の色づけは難しいものだと中島らもの動画を眺めながらしみじみ思う雨の日曜日。
ラベル: 日常 考察
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