2009年5月31日日曜日

人の死ぬ理由

もちろん以下述べることは、わたし個人の思いであって、なんの客観的な正しき根拠もない。
(「客観的」というコトバ自体がすでにウソくさいのだけれども)

ただし、人が自分の生きる意味を色づけているとすれば、その色づけが彼なり彼女の実人生のなかで終わるとすれば、もはやこれ以上色づけようともなんらの輝きもその人の実人生に発しないと覚悟したとき、人はそのまま安らかに死を迎えるべきだろうと思う。

少なくともわたしに関しては、そう思う。

しかしながら、周りの人にはそれでもという思いがあるだろう。
あろうケースはままあるだろう。

この場合の人は当事者ではなく周りにいる人であることに注意されたい。

そのとき、あなたが周りの誰かで、その人の死を願わなければ、言えばいいと思う。

(それでも)あなたが生きていてほしいと。

これがその人の生の延長を願う唯一の道だろう。
(もしその人が自己の人生を色づけた人ならば)

そして、色づけた人ならばその要請に応じるかもしれない。

なぜなら、実質的に自分の人生は全うされているのだから自分の人生を他者にゆだねることに躊躇することはあるまい。
ましてや自分を愛し続けていてくれた他者にだ。

自殺は正しいかどうかとか一般論で論じる効果は薄い。

人がその人の生命の延長を願う方法はたった一つしかないのではないのか。
わたしのために生きていてほしい。(あなたが死んじゃイヤだ)

わたしはそう思う。

その意味で、これほど多くの生きながらえる人がいることが、わたしには不思議だ。
なかには「死んでくれ」と願う人もいるだろう。(とくに介護者の中に)

人はおのれが色づけて生きていくのなら、死に場所がわかる。
(そうでないのならチンプンカンプン)

死が悪ではない、生が正義でもない。

ただ、今回のブログで書きたかったことは、それでも生きていてくれと願う人がいれば、その願いは聞かねばならないこともあるということだ。

そのとき、底に流れる何ものかを「ぼんやりとした愛」と、たぶんわたしは呼ぶ。

わたしにもそんな願い、命の延長を願う人がいる。

あなたが死んでは、わたしの傍からいなくなっては、イヤだと駄々をこねたい人が…。
そういった思いに駆られたとき、思いはひとつのことに引き寄せられる。

くりかえしになるが、いまのわたしの根底を流れるものはあなたへの「ぼんやりした愛」だとわたしはしっかりと思っている。

その愛の下にこう言いたい。

「あなたが、いなくなっては、イヤだ」

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