2009年6月5日金曜日

ざっくり

「ざっくり」というコトバが嫌いである、というより耳障りだ。
どいつもこいつも(失礼!)よく使う。
たいていは少しインテリぶっている連中だが、彼らはコトバの恐ろしさを知らない。

「ざっくり」というコトバ自体に実は罪はない。
「ざっくり」自体ではなく、あなたが使う「ざっくり」というコトバで言い表されることが可哀想ではないかということを言っている。

たとえば、「かわいい」と言う。
なんでもかんでも「かわいい」と言う。
あの花が「かわいい」と言い、あの赤ちゃんが「かわいい」と言う。
けれどもあの花のかわいさとあの赤ちゃんのかわいさが同じわけはない。
かわいさは違うはずだ。

しかし、あなたが「かわいい」と言ったときにその対象のかわいさの差異はなくなる。

それがコトバの持つ暴力だ。

男はみんなスケベだと言う。
それはそうかもしれない。
しかし、わたしのスケベさとあなたのスケベさは違う。
それを「スケベ」と言うコトバは一緒くたにしてしまう。

大切なものはその差異に潜む。
その差異を同化して見えなくしてしまうものがコトバの持つ属性なのだ。(正しくは属性のひとつなのだ)

そのことをわたしはコトバの持つ暴力と呼ぶ。
その暴力が成立するのは思慮のなさ分別のなさから来るものだろう。

一度思慮深い人の話し方に耳を澄ましてみればいい。
とても細やかにコトバを使おうとする意思が見える。(実際に使えているかどうかは別にして)

だから、「ざっくり」と言いたければ言ってもいいが、それは「ざっくり」と言う表現にあてはまるときにしてほしい。
そうでなければ、あまりに思慮が浅すぎる。

コトバは発してしまえば、発した対象への思考をとめる。

ある草花を美しいと思ったとしようか。
そのとき「美しい」とコトバを発したとしよう。
直ちにその花への視点は曇り、思考は停止する。
そういう面がコトバにはある。

ただ眺めていればいいと言うのはそのことを思っての発言だ。

コトバを恐れながら、それでいてコトバに寄り添いながら、コトバを使い、語り合おうではないか、なあ、友よ。

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