2009年6月7日日曜日

自分であること

先のブログでは十分ではないので、このことに関しては、随所に書き加えるという形を取りたい。

まず、自分の持つ仮想と自分であることとはかなり密接に結びついているだろう。
しからば、その仮想は自分自身で作り出さなければならないだろうという結論にはなる。

けれども、その作業は一から始めるものではない。
わたしたちは、多くのものに影響される。
それは直接的に誰かの言葉を(その本人から直接に、書物から、講演で…)聞くことで、何かを見ることで、(映画を、草花を、ある人の生きる姿を…)影響される。

そのことを恐れることはない。

いまや人はあらゆるものから影響を受ける。
そのときにその影響を自分の中に何の疑いもなく取り入れるか(それではある種の洗脳になるかもしれない)、影響を受けたものと戯れ自分の血肉化としていくか、そんなに大仰に言う必要はない、自分の考えとして持っていくかすれば、それはもはやあなたの内実だ。

この部分は、あまり厳密になる必要はない。
早急に影響されないだけの「ため」さえあれば、もはやそれはあなた自身のものだし、そのようにあなたの仮想は作られる。

それでも仮想には個人差ができる。

それがあなた自身だと信じて、心配することはない。

それでもあなたは十分に個性的だ。

ただ、出来ることなら何にに影響されているかは知っておく必要がある。
時に自分の偏向を知ることは大きな力を持つ。
(これは、人が偏向を持つことを支持しているわたしの考えだ。人は偏向を持たざるをえない。問題はその偏向を意識できているかどうかだ)

というわけで、あなたを動かすものにうまく出合えることをわたしは願っております。

さらに、つけ加えておけば、人と人はわずかな仮想の一致で連帯を組むことが出来る。
何もかもが似ている人とでなければ気が合うことはないというのはまやかしだ。
われわれはそんなに厳密には出来ていないのだよ。

人と人の出会いは肝心な部分での意気投合だけで十分なのだと思う。
そして、それが、淡交であれば、これに勝るものはあるまい。

けれども、ときには、自分を失うまで酒を酌み交わしたく思うこともあるけれども。

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