2009年6月19日金曜日

自分のやっていることは自分にはわかっている

「自分のやっていることは自分にはわかっている」

そのように信じ疑わない人は多くいる。
しかし、自分自身が自分を自分の指揮下においているかといえば、はなはだ不確実な話だ。

裁判でよく問題になるのはこの点で、自己管理化にない犯罪は無罪、あるいは罪の軽量化となる。
そして、それは裁判だけにかぎったことではなく、日常でも頻繁に起こっている。

「自分のやっていることは自分にはわかっている」

は、当たり前のテーゼではない。
一般には、なにをやっているかを決定するとき、自分自身が全面的にその主体の場にいる機会は通常のことではないことを知らなければならない。

だからこそ、検証し、自分の行為を自分の手の元に戻したく思う。
それがたとえ自分の無意識の行為であっても。

わたしは、実は、酒を飲むとまったくもって不可解な行動を起こすようになった。
だから飲まないようにしているが、飲んだら、ほぼ確実に不可解な行動に出る。

そのアルコールを帯び、不可解な行動をとる生物をわたしではない、と言い切ってもいいのだが、そういうことを理解はしてもらえまい。

裁判ともなれば、心神喪失者あるいは心神耗弱の対象になるかもしれないが、そういうことではなく、日常生活でさえ、もはやハンドルを失ってしまったのかもしれない。

けれども失った、あるいは見えなくなったハンドルは確かにどこかにある。
それがわたしの何の根拠もなく信じる思いだ。

ハンドルが、眼前に現れるように生きてみたい。
そしていつの日か、ハンドルなしで自由にこの世を駆けてみたいものだ。
自分の思うがまま。

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