2009年6月14日日曜日

将棋棋士や落語家を眺めてみていると

将棋棋士や落語家を眺めてみていると、ふと昨日思ったことに行き当たる。

「生きていることを忘れるような作業に勤しんでいたいと思うのが切なる願いだ。」

何ぞと書いてはみたが、よくよく見ると棋士や落語家で、「なんであんなものに」などと思うほど本気になってやっている人は生きていることは忘れているように見える。
忘れてはいないかもしれないが、二の次になっているだろう。

それでいいのだろうなとしみじみ思う。

そうなると、己にも何かしら、どうなってもいいやと思えるほど自分をつぎ込めるものにぶち当たるしかない。
なに、実のところは遠い昔より、それらしきものに、ぶち当たってはいたのだ。

酒や、ばくちや女や何ぞで気散じをしているものだからこのていたらくという始末。
ばかぁは、しょうがないものだと、思い当たる。

思い当たっただけまだ生きていけるのかもしれないとも思う。

おもしろいものだ。

生きることを捨てたときに生きていけるというのだから。

そういやぁ、夏の木陰に吹いてくる涼しい風を「地獄のあまり風」といったりする。
本当は、「極楽のあまり風」というが、ここは「地獄のあまり風」としゃれてみたい。
でないと、口に出す気にゃあなれない。

いい人たちは自分がいい人であるためにとても悪いことをする。
それでも多くの人は、ひどい彼らをいい人と呼ぶ。

そういう世の中に「極楽のあまり風」なんぞ吹くものかねえ。

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