2009年6月11日木曜日

日本語で考える

わたしたちが考えるとき、たいていは日本語で考える。
わたしたちの多くは、日本語が曲がりなりにも使えるから、それをいじくりまわしていると何かしら考えた気になってくる。

けれどもどうやら「考える」という好意はそんなに近場には住んでいないらしい。

そういうことに気づくことがある。
もちろん気づかない人もあって、そういう人は幸せなまま日々無批判に、考えた風なことを誰かにしゃべって悦に入っている。

「考える」行為は、そんなに近場に住んでいないし、日本語を弄んでいても何も生まれはしない。
「考える」行為にはその意味であまり近づかないほうがいいし、近づかないで住んでいたほうが安楽だと思えるようきな臭さがある。

そこで生まれるのが、自分に興味のあることだけを考えようという発想だ。
自分に興味のあること以外は、どうでもいいし、どうでもよくはなくなったときに考えてみればいい。
そういう気楽な態度を思うことになるだろうが、それでいいと思う。

そう考えてみれば、なにやら難しげに考えている人間の話にも興味はわかなくなるだろう。
その話がどんなに日本社会にとって、拉致問題にとって、パレスチナ問題にとって、国際情勢にとって大切なものであっても、自分には何の興味も起こらなければ、それはしかたない。

それがキミの意識の低さだとなじられようとも耐えていこうではないか。
もし、そこでその非難に屈するのであれば、そこから考えればいい。
そのときの思考には、多くの情報が必要になるし、情報の取捨選別や、情報への重みのつけ方も必要になるだろう。

しかし、それは仕方がない。
その対象にあなたが興味を抱いてしまったのだから。

ここでの本当の問題は、その問題に興味を抱いたあなたが本来のあなたであったかどうかだ。

別に社会的に大きな意味のあることだからといって、興味を抱かなくたっていいんだぜ。
あなたにはあなたの興味がある。

たとえば、わたしは市川雷蔵に興味を惹かれるが、市川雷蔵が気になるのはわたしの勝手で、何の正当な根拠もない。

あなたの持つ興味もそんなもので、そういう興味の海の中であれこれ考えることが愉快なことで、誰かから与えられたことを考えるのは、あまり楽しくないのではないか。

それに、誰かから与えられた課題には往々にして正解がある。

「考える」という行為は「正解」にたどり着く過程にあるものではないということは、わたしでもはっきりといえることである。

むしろ、「考える」ことは「正解」から逃れる行為ではないのではないのだろうか。

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