2009年6月11日木曜日

外のものにはなんらの興味も

己の外のものにはなんらの興味もわかないわけだから、生きていこうとする意志などわきはしない。
かといって向いている己の中などは、自罰的な興味でしかなく、単に嘆かわしいだけで、ひたすら眠りを恋する。

鬱の状態をある方向から描いてみればこのようなものか。

よくブログの中で取り上げるように意味は己が色づけするものだから、その色づけする意欲が自分になくなってしまった状態では、自分の外部に手が伸びることもなければ、外部に目線がいくこともない。

わたしが、くだらぬテレビを見てすごすのはそういう状態であっても何とかこなしうるだけの情報しかテレビが、つまりはやつらが発しえないからである。

見方を変えれば、それほどまでに希薄なものを発し続けるのが、テレビであり、そのテレビに慣れ親しんでしまった人々に外部に対するそれ以上の意味づけをする力は残っていない。

そのためにテレビの中でされるあらゆるコメントは、素人、玄人問わず(それで金をもらっているかどうかだけだが)常に希薄である。(もちろん例外はあるが、それはあなたが探し出せばいい。探し出せばいいが、探し出すのには苦労する。それならば、テレビ以外に探すほうが効率はよいだろう)

そういうわけで、うつ状態が続く人間にとって、外部はなんらの意味はなくその外部と連結して生きる自分にももちろん意味はない。
意味がないところにいごごちのいい場所はなく、頭を抱えてうつ状態が過ぎ去るのを待つしかない。

これに失敗すると自殺ということになる。

意味ない世界には存在意味もないからだ。

ただ、このごろときどき思うのだが、意味などなくても生きていける方法があるのではないかと。
ただなんとなく、ふらふらふらと生きていける方法がるのではないのかと。

つげ義春の「無能の人」などを眺めているとそんな気もしてくる。

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