2009年6月20日土曜日

発生主義と現金主義

「発生主義」も「現金主義」も会計用語である。

一つの工場で考えれば、たとえば工場運営にかかる電気代を3ヶ月ごとに支払う契約をしたとする。

この場合、発生主義で考えれば毎月の生産活動の勘定において消費する電気が実際、現金を支払っているかどうかとは関係なく費用として換算される。
資源の消費と生産が時間的に統一されているわけだ。
発生主義を採るならば、毎月の決算においては電力代の支払い有無に関らず、電力代は費用として会計に計上される。

同じように寿命が十年の機材を100万円で購入した場合に、支払いは最初の一年目に100万円であるが実際の経済資源の1年の消費はその十分の一に過ぎないとすれば、発生主義に基づけば毎年10万円が費用として計上される。
これを一般的には減価償却と呼ぶ。

現金主義における収益や費用の認識が現金の受け渡しの時点を基準にするのに対して、発生主義においては、現金収支を伴うか否かにかかわらず、収益または費用を発生させる経済事象に着目し、この事象に従って収益または費用を認識する。

これは、人の行動を判断することにもそのままメタファーとして使用できる。
最終的な行動、それが犯罪であれ、自殺であれ、目立つ行動であるならば、ひとは最終行動からあれやこれやと考えようとする。(現金主義)

しかしながら、この最終行動を発生させるに足るもろもろの事象はそれ以前に生じており、このことこそが、問題かもしれない。(発生主義)

人は最終的に何をしたかによって判断しようとするが、(とくに秋葉原事件やバスジャックのようなわけのわからぬものは)それ以前にその場所まで犯罪を起こす人間を連れて行ったものがある。
連れて行ったものの中には犯罪者自身の精神のありようもあるが、それ以外の要素がなかったとは言い切れない。

あまりにも発生主義を軽視する傾向にあるとわたしには思えるが、犯罪の再生産可能なシステムがすでにこの社会に出来上がっているとしたら、それをこそ問題にすべきだろう。

そのシステムを止めるのに個人が無力だとは思はないが、社会として考えねばならないポイントも抜きには出来ぬだろう。

追い詰められて最後にとる行動だけを見て、その人間を判断する愚考は否定したい。
もちろんその愚考が引き起こした悲劇はそんなことでは消えはしないのだが、その悲劇を一人にかぶせることは何の解決も呼ばないように思う。

いつも書くように人というものはそんなにも上等ではないのだ。
認識なき悪意で容易に地の底まで突き落とされる。
そして、その悪意の主は自分の悪意が起こした事象には無頓着に追い詰められた人間の起こした現象をまったく自分にはかかわりのない事件のように語る。

人はそのように立派ではなかったはずなのに。

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