2010年4月30日金曜日

小沢遼子さん

この人は大人である。
毎週金曜の朝、TBSでこの人が時代についてコメントするのを聞くのは楽しい。
今も聞いていて楽しい。

こういう大人が今のマスコミにはまずいない。
マスコミの堕落している所以である。

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「大仏男」再び

小説としての出来は、直木賞まで届くかどうかの境界線。

十分な下調べ、物語の進め方、卓越した洞察力…いい作品である。
とりわけ原宏一さんの男に対する洞察力、自分の状況を読めない女への洞察力、霊能者に対する洞察力、小説に対する洞察力…その洞察力に安定感を覚える。

この洞察力ひとつに特化しても、そうそうはお目にかかれない作品だと思う。
大人用の作品である。

困難な状況に主人公たちは追い込まれていく。
通常の作品では、ここから主人公たちの活躍で事件は解決する。
この小説では、解決しない。
事件は、基本的に「システム対人間」の様相をもってとらえられている。

この観点は、優れた学者や評論家にあるが、小説でこのようにこちら側に身を寄せて書かれたものはあまり知らない。
もっと崇高なものならば、藤沢周平氏の小説群の中に存在する。
けれども。それは常人に何か自分の問題ではないように感じさせてしまう。
藤沢氏にそんな意志はないのだろうが、透徹した目で構築される緻密な藤沢さんの世界には人を寄せつけないところがある。(読者と作品の距離を有無なくとらされる → 妙な同化をさせてはくれない)

に対して「大仏男」はやさしい。
わたしたちの生きる環境の困難さをやさしく手渡してくれる。
今の時代に必要な一冊だと思う。

霊能者のホットリーディング、コールドリーディングの手法を知るだけでも十分価値のある著作である。
一読を強くお勧めする。
安くて読みやすい、作品です。

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回復する睡眠時間

昨日と今日はともに二分割ではあるが、4時間の睡眠時間が取れた。
最長連続睡眠は2時間。

連休期間で、さらに回復するだろうか。
とにかく、睡眠剤と酒を遠ざけて日々を過ごすだけだ。

明日は、若い友人に連れられて外苑前の美術館へ行く。
見せたい絵画があるという。
幸せな企画である。

明日を思えば、夢うつつのわたしである。

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2010年4月29日木曜日

幻霜豚

広島で育てられた幻想ポークを浜田山の肉屋で見つけたので、物は試しと買って帰る。
100g280円は、妥当な値段だった。

おそらくは、かなり安いプライス設定だが、今の商品市場はこんなものだろう。
普通の豚コマは、140円である。

丸正というこの肉屋は、変な肉をまったく置いていない。
その豚コマは信用できる。
ここの豚コマを食べていて何の問題もない。
確かに家に戻って食した幻想ポークは、うまみがあった。
ギリギリの火を通した薄切りをしゃぶしゃぶにして、上等の醤油を1,2滴垂らして食した。

うまかった。
うまかったが、まあこんなもんやろ、というところか。

わたしは、140円の方でいいかな。

奮発してトンカツでも作るときは、幻想ポークを使いたくなるかもしれない。
そのときには、だれに食べさせるかによる。
料理はだれに食べさせるかによって変わる。

西健一郎さんがお客の様子をしっかり見る所以である。

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2010年4月28日水曜日

美しき人、ルーシー・リー。奥深き陶器、ルーシー・リー。




今週号の週刊朝日でルーシー・リーに出会う。
もう15年前に亡くなった人で、とても美しい人だった。
美しいはわたしの主観だが主観こそがもっとも的確に美しさを捉える。
そのためにわたしは自分の主観を磨いてきた。
その結果、いまのわたしは写真の女性の美しさに魅了される。
なんとも言えぬ充溢感がわたしをくるむ。
ルーシー・リーは美しい。
彼女の陶器も眺めてほしいが、どうやら彼女自身の美しさと陶器の美しさは似ているようなところがあると思う。
陶器の美しさは機能美といってよいかもしれない。
彼女の口癖は、こうだった。
I just make pots.
こういう女性がいたのだ。
気が遠くなりそうだ。

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睡眠障害について

物理的な睡眠時間よりも、たったこれだけしか眠っていないと意識の方が、ずっと大きな影響をわたしに与える。
そういうことを少し前のブログで書こうとしていた。

わたしのブログは、その場で思いついたことや気になっていたことを書きなぐるようなものが多いので、ついついわかりにくい文章になってしまう。
申し訳なく思っています。
それでも、同じようなことをぐるぐる考えているので、気になるテーマは(テーマというような大きなものでもないが)何度なく登場して、そのうちわかるようになっていますので我慢してお付き合いください。

で、ここで繰り返すのも同じ内容ですが、少しすっきりとした内容になっていると思っています。
繰り返しているのはただ一つ、睡眠時間が短くなることよりも、睡眠時間が短いことを気にしている意識の方が、ずっと大きな影響を自分に与えているようだ、そのことです。

ですから、わたしは今日も3時間弱の睡眠ですが、短い睡眠時間に関しては何も心煩わせることなく、こうやって会社でお仕事をしているわけです。

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2010年4月27日火曜日

簡単な観察記録

今日は2時間睡眠のまま出社した。
強烈な眠気が一度襲ってきたが、驚くほど眠くはない。
ただ、気合を入れないとぼぉーっとしているだけで時が過ぎる。
昨日は3時間睡眠。
一昨日は4時間睡眠。

睡眠時間は驚くほど少なくとも問題はない。
ただ、突如として交わしきれない睡魔に襲われるだけだ。
それを嫌がらなければ、何も問題はない。

むしろ、3時間しか眠っていない意識が、その意識こそが強迫観念に繋がる。
そちらのほうが、ずっと強烈だ。

さて、今日も早く帰る。
少しは眠れそうだ。

今日未明、午前12時半に眠ったわたしは1時半に目覚めて、朝まで眠れたと感涙に咽んだ。
どうして朝だと思ったのだろう。
それほどじっくり眠った気がしたのだ。

けれども、1時半とわかったとき急に睡魔が追い駆けてきた。
そのとき、ここで眠らなければという意識が生じた。
眠ろうという意識が生じたとき、眠れなくなった。

意識が強烈にわたしを縛りつける。
そんなもの放っておけばいいのだ。

これが、一等難しい。

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2010年4月26日月曜日

連続睡眠の限界

酒と眠剤の影響下から抜けようとして投与しなくなってから10日間。
ここ数日はまともな睡眠が取れていない。

とくに連続睡眠となると悲惨な状況で、今日の未明、午前1時半~4時半の3時間が画期的な記録であった。
それまでの3日間は連続睡眠1時間という壁が厚いもので、必ず1時間後に目は覚めた。

それほど依存度が高かったということだろう。
いま、わたしのホメオスタシスは必死になって正常に戻ろうとしている。
その悪戦苦闘が、わたしの上に連続睡眠1時間の限界となって現れた。

連続睡眠が1時間以上は取れない。
トータル睡眠時間が多くて4時間弱、だいたい3時間というのはかなりきつそうだが、そうでもない。
ときどき、ひどい眠気が襲うだけであとは普通である。(靄のかかった頭の状態が、いつもより多く占めているかもしれない…そんなもんだ)

それが、今朝はなんにしろ3時間の連続睡眠が取れた。
ワクワクしている。

睡眠が取れただけに喜んでいるのではない。
この間、夢を見ていないのだ。

わたしにだって夢でしか会えない人もいる。

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大仏男

原宏一さんのこの小説に波長が合ってしまいました。
合わなくても面白いところに波長がドンピシャ。

読書をゆっくりできる状態に心が戻ってまいりました。
幸せなことでございます。

これからは、お世話になった皆様方のご恩に報いるため奮励努力していく所存です。

さて、それはさておき愉快な小説「大仏男」についてひとくさり。

文字情報ははかない。
視覚情報と比べればゴミのようなインパクトである。
だから、文字情報は受け手の状況にも大きく左右される。
それをガサツに、その本と読者の気が合わなければ簡単に捨てられてしまう存在だといってしまってもいいだろう。
内向的な娼婦のようなたたずまいを想像していただければ、それが一本の小説を仕立て上げる作家の在りようとなる。
この感覚のない作家はどこか大きな問題点が生じることになると思う。

「大仏男」とわたしの相性はバッチリだ。
その上、原宏一というコピーライター出身のこの御仁は、よく芸能界に通じていらっしゃる。
笑いをどう作るかもかなり正確に辿っている。
霊能者のあざとさもよくお分かりで、それほどの人だから笑いがギャップから起きるという単純にしてディープな事がらもさらりと書いておいたりする。
ギャップから笑いが起きるという指摘にわたしはギョッとなった。
わたしの新書企画の一本の鮮度が落ちてしまった気分だ。

ま、とにかく、この大仏男は人間というものに興味をもつ読者には面白いことを請合います。
メディア、霊能者、芸能事務所、…いまどきの話題が、わたしたちにとってどのようなものであるのかを
愉快なストーリーのなかで教えてくれる。

朝井リョウといい原宏一といい、才能は何かのきっかけで次々と花開く。
久しぶりに小説読みに戻ってきて、その醍醐味を味わっている。

幸せである。

ラベル:

2010年4月25日日曜日

桐島、部活やめるってよ

タイトルからして、図抜けている。
抜群のキャッチコピーだ。
写真の表Ⅰの文字の改行は、朝井くんの発案なのか、それとも装丁家なのかな。
どっちでもいいか…

すばらしいコピーになっている。

時代を感じさせるね。

小説すばる新人賞を取った「桐島、部活やめるってよ」の高い評判が波及していく。
このブログを書いている今も、水際が波立っていることだろう。

著者の朝井リョウくんは、とても控えめな早稲田大学の現役生。
こんな小説が、小説すばる新人賞を取っちゃっていいのって風情が隠せない。
すばらしき表現者のもつ特徴的な資質、自己否定の回路を朝井くんも見事に具えている。

少し前に評判をとった「田村はまだか」浅倉かすみ著、と同じ形式を取るらしい。
もし、あなたが両方ともに読んでいないなら、ラッキーだ。
ゴールデンウィークに二冊読んで御覧なさい。
とても幸せな気分になれると思うよ。

なれると思う?

そうそう、ボクはまだ、「桐島、部活やめるってよ」を読んでいないから。
月末まで、カツカツの生活だから。

けど、久しぶりだな、読む前に名作ってわかってしまう本は。
楽しい作家が登場してくれた。
文学の世界にもまだ、才能が訪れてくれるということか。

いやいや、文学なんていっていること自体、もう古臭いのか。
じゃあ、こう言えばいいのか。

読む前から名作だとわかる本は久しぶりだ。
あの娘以来だな…そんなに前でもないか!? うん!

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夏野菜、遅し

八百屋では、春野菜がもはや峠をはるかに越え、夏野菜を待っているが、この寒暖差激しい気候不順、夏野菜の到着はまだ少しかかる。

そのため野菜のこの高値。
どうすればいいかとお嘆きのあなた。
たぶん天候の影響せぬところで作られているのだろう、キノコ類が安い。
キノコ料理を楽しんではいかがだろう。
濃い味で煮付けてしまえば、10日ばかりなら余裕でもつ。
普段食べないキノコ料理に挑戦してみればいい。

わたしはと言えば、今からなじみの八百屋さんに出かける。
この八百屋さんの野菜は生産地から、毎朝、直接運んでくるので、新鮮でおいしい。
いつもそうだが、今日この頃の、高くてまずいスーパーの野菜はイヤだ。
それなら、同じ値段でおいしい、あそこの八百屋さんで買おう。
いつもは、高くておいしいが、いまは同じ値段でおいしいんだからね。

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睡眠、ままならぬ

アルコール依存症によって自律神経がイカレテ、ホルモンバランスが崩れてしまった。

そこへさして、睡眠剤を飲んでいたものだから、わたしの睡眠状態はぼろぼろで、ここ数日は、4時間も眠れればいいほうで、金曜(2時間ほど)、土曜(3時間ほど)もカッコ内のような具合で、しかも持続睡眠は1時間でほぼ終る。
完全に制御が利かない状態だ。

それでも、この睡眠時間で仕事を回せていけるのは、まことに理解ある経営者のおかげであって、身に余る幸せである。
あと少しの我慢で、酒と睡眠薬を断ちながら健全なホメオスタシスを獲得できると日々暮らしております。

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2010年4月23日金曜日

レディガガ

彼女は個性的なんでしょう。
わたしには、よくわからないですが。
(いや、興味がないだけで、彼女素敵かもしれない。でも、まあ、どうでもいいことです。)

で、その世界的なポップシンガーって、とても個性的ですごい人気なんでしょう。
ある種の洗脳だとしても、それはそれでいいではないですか。
その個性的なファッションにみんなが憧れるんですね。
でもって、その現象をあれやこれやテレビなんかで評している。

ま、ここまではわけるけど、それからがわからない。

彼女は個性的であり、個性的であることに対して、みんなは憧れるんでしょ。
それなのに彼女のファッションが流行しているのがわからない。

彼女のファッションは個性的だけど、彼女のファッションを真似する人々は個性的じゃないんだモノ。

正気かね。
彼女のファッションを真似してもどうしようもない。
それは、個性的ではないからね。

また、彼女のファッションが流行しているのなら、彼女が個性的なことは別に強調するまでもない。
あらゆるファッションは、流行する前は個性的だったんでしょ。
だから、彼女が個性的なことを取り上げる必要はない。
彼女のファッションが、なぜ流行ったか取り上げたら少しは面白いかもしれない。

何を考えているんだろうか。
日本のマスコミも、何も考えずに右へならえの女たちも(ゲイも含めてね)。
頭痛くなるよ、この現象。

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社内ニート!? やったじゃん

社内ニートとは、オフィスにおいて仕事のない状態の人をさすらしい。

そういう状態になったらどうする?

どうする!? 

ラッキーじゃん、一日中好きなことができる。
こんな幸せなことはあるまい。
何やろうか、ほくそえんでしまう。
わたしなら。

好きなことをやりなさい、好きなことを。
時間は十分にある。
しかも、パソコンもある。

何、パソコンがない!?

買ってもらいなさい、買って。
何とでも言えばいい、買ってもらいなさい。
それで企画を作りなさい、企画を。
大きな企画の方がいい、大きい方が。

そのために、社外の人とも交渉しなさい。
人脈も作りなさい。
自分を磨きなさい。

くだらんマイナス要素を考える必要はない。
ありえない自由ではないか。

ラッキーじゃないか、工夫しなさい。
企画のなかで遊びなさい。
これは絶好の機会ですぞ。

社内ニート、素晴らしい耳障りですな。

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沢登さんからの暖かいメール

直前のブログ、「5月29日の歌」への讃歌は、沢登さんに暖かく受け取ってもらった。
これほど嬉しいことはない。

沢登さんもそうだろうが、われわれ、どんなものであれ、何かを伝えようとする作業に携わる者たちは、それが届いたとき、至上の喜びに満たされる。
そのとき、金の多寡など関係ない。
届いただけで、それだけで、いいように思う。
一方から見れば気高く、一方から見れば「このアマテュアめ!」ということになる。

わたしは、いま至上の喜びを味わっている。
沢登さんからのメールには、わたしの讃歌を読んで、自分の歌があなたに届いたことを知ったと書いてあった。

わたしは、それはとてもよかった、と思い、直後わたしの讃歌が沢登さんに届いたことに感涙した。

東京都のなか、いささか距離は離れているが、二人の人間が、自分の表現が誰かに伝わる感触いま分かち合っているのだと、昨夜、27歳になったおじさんと30歳になったおじさんは、それぞれの場所で涙した。

たとえ、姿はどう映ろうともあまりにも美しいシーンではないか。

まあ、よくよく見れば、無様だけどさ。

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2010年4月22日木曜日

5月29日の歌

沢登秀信の「5月29日の歌」は名作である。

今宵、彼の歌を聴きに行くものだから、さっきから何度も確認しているが、この詩は実にすばらしい。
歌詩としての技巧もさることながら、描かれている世界が深い。
本人が知っていなくてこれを書いているとしたら、沢登のものを見る目の深度は尋常ではない。
わたしが、ようやく到着した認識を、30代の前半にすでに直感で捉えていた。

恐るべし、沢登の感性。

問題の箇所は次の太字部分。
この歌詩には注目すべき点が他にもいくつもあるが、今回は一点に絞る。


5月29日の歌   詞/曲:沢登秀信

川が流れるように 
時はすぎてゆく
君と僕の恋も どこへゆくのやら

ベランダの君は
洗濯に夢中で
青い空が君の バックスクリーン

夏が近づいてる
葉桜の向こうに
フルーツの匂い 初夏の午前10時
白い雲がひとつ ふたりを越えてゆく

物言わぬ僕の 眼差しを越えて
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ

同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら

夏がそこまで来た バラの垣根まで
新茶の封を切る 君の顔が笑う
青い風が今 ふたりを過ぎてゆく

夏が笑っている カーテンの裏で
飲み干された湯飲み 覗き込むふたりに
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく

夏が笑っている きらめきの向こうで
行く先の決まらぬ 間の抜けた僕等に
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく...


とても魅力的な詩なので、そのことだけに注目してしまうが、この詩の直感的認識は深い。
わたしのいま思う男と女の関係の最も美しい姿がここに描かれる。

この説明は、多少複雑になるので簡略なものにさせてください。

ポイントを「異物」に絞る。

男は女を異物として自分の身の内に迎える。
異物として入った女は自分と同様の姿に男を変えようとする。(=逆に女は男を同化させようとする)

この視点で読むと沢登の詩は以下のようになる。

物言わぬ僕の 眼差しを越えて 
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ
(キミに何も要求せず、キミを異物としてそのまま認めるわたしの前で、キミはいつもと変わらぬ異物の囁きをくれればいい…そう男は言っているのです)                     

同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら
(しかしながら、キミは異物の自分に合わせるようにわたしを変えようとしているのだろう。そのことをわたしは感づきながらまだ意識しようとしていないようだ…男と女の関係の最も美しい瞬間です。わたしは、いま現時点で、そのように感じている。それをすでに沢登はこのような美しい詩句で15年程前に結晶化させていたのです)

この歌だけで、十分なのに沢登という人は、さらに美しい詩とメロディーを創りだしている。
それは、まさに一つの到達点だが、そのことを多くの人は知らない。

知らないというより、この美しさに感応する感性を多くの人はすでにどこか道端に捨て去ってしまったのです。
沢登はその感性を後生大事に守り、ここまで生きてきた。
十分にめでられるべき才能だとわたしは思う。

わたしは、それを感じたとき、彼に深く頭を垂れることがある。
それが、才能に対する敬愛だ。

ラベル:

今宵は彼の歌を聴きに…

生活が安定したその分、心がささくれ立ってぼろぼろになった。

生活が安定すれば、心は壊れ始め、金ががなくなれば、なくなったで自暴自棄になる。
どの道、わたしのいく道、いいようには事がまわらない。

どう転がっても、自己否定の目だけはしっかり背後から着いてまわる。
今回は、その背後の目がわたしの身体を透徹して、前にいる他人をも刺し貫いた。
他人は、初めてのことにわめき騒ぐ。
痛いだの、きついだの、オレの身体に何をしただの。

知るわけがない。
わたしの背後からの自己否定の目線が、失礼にもわたしの前に回ったおまえらの安っぽい身体を親切に焼き尽くしただけのことだ。
自己否定の欠片も持ち合わせたことのないおまえらにはさぞや痛かっただろう。

痛ければ、痛いと叫べばいい。
そうやって、わたしたち一族は生き連なってきたのだ。

この自己否定を旗頭にわたしたちは自分の心の純潔を守り通した。
その分、痛みが増え、その痛みの元である純潔の心は憎らしげにわたしたちの内部でほくそえむ。

お分かりかな。
ど素人が、わたしたちに近づくのではない。

原因がどこにあろうと構わない。
わたしの心はいまぼろぼろで、美しい魂のささやきを欲している。

高円寺の「稲生座」。
今宵、21時。
わたしは、美しい魂をもつこの男に会いに行く。
美しい魂をもちつづけてきたこの男の痛ましき香をこの嗅覚に収めにいく。

男はわたしを見て、嫣然と悪魔の笑顔を投げかけるだろうか。

ラベル:

直接は辛いな

書いたものに文句をつけられるのは構わないが、直接に言われるのは困るなあ。
対処に困ってしまう。

その批判が、当っていても当っていなくても、直接言われた場合は困ってしまうことが多い。
面前の人間は対処しにくいのだ。
ましてや、わたしに直接言ってくるのだから、そういうタイプの人が多いんですよ。

そういうタイプ?
だから、そういう人、自分の読みを正しいもの、唯一無二の読解と信じている人なんです。
その人の読みが多少おかしくてもその人は胸を張ってわたしに言ってくるのですが、そう言われてもねえ。

それなら、そうお考えいただいて結構ですのでお引取りくださいといいたいのだが、相手はちょっとやそっとでは動かない、例のタイプですから、とても困ってしまう。
かといって、言われなき批判に頭を下げるわけにもいかないし、いや、まったく参ってしまう。

だいたい、だれの読みでもこれが絶対ということはないし、だれの書いたものもこれが絶対というものではないもので…。
だから、お互いにいい加減で付き合いたいのですが、そういうことに無頓着な困った人もいるんですよ。
それも正しいことを教えてやるといったような。

参るんです、そういうときに。
正しいと思っている人間は、ろくなもんじゃないですから。

致し方ないことかもしれないですが、ほんとにかないませんです、ハイ。

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2010年4月21日水曜日

わたしのブログを読んでくれている人がいる

無名で、心もとないわたしのブログを日に百人近くも訪れてくれる人がいる。
とてもうれしい。

自分が、認められた気分になる。

わたしには、武道館を満員にする力はない。
けれども、あなたの心に届けとふらつきながら書いてきたこのブログを、多くの人が読んでくれている。
わたしのブログの中のどれかが、あなたの心に届いたと信じていいのではないかと思う。

信じることの少ないこの時代だけど、わたしはあなたを信じようと思う。

わたしは信じる。
わたしはあなたの目線を感じる。

わたしは、どこにいるかもわからないあなたに、ヴァーチャルではないものを届けたいと思う。

その作業を支えてくれたあなたに感謝します。

ありがとう、読んでくれて。

ラベル:

今日は暖かい

人は気分で、ものを言う。

なるほど気分だろう。
「暖かい」も「涼しい」も気分だ。
相手に自分の気分を確認してもらって落ち着く、そういうことだろうか。

天候でも「暑い」とか「寒い」になると気分ではなく、実際に温度計もそれなりのものを示しているだろう。
そのときは、無意味な言葉を交わす挨拶となる。

「暑いねえ」
「寒いねえ」

言わなくてもいいようなものだからね。
けれども、この言わなくてもいいことを言い交わすことで、お互いの気分を保持している。

要は、暖かい、暑い、涼しい、寒い、はどれもこれも挨拶であったり、挨拶のようなもので、言葉を交わすことで、お互いの存在を確認し合い、その存在を自分に大丈夫だと言い聞かせているのだろう。

わたしは、本人ではないから、本当のところはわからないが、まずそうなっている。
人の存在はそれほど弱いということだ。

だから、何によらず意味だけを追いかけていくと、ろくなことにならない。

こんなことって意味ある?

なんて、貧困な頭で考えないことだ。
意味はある。
それは、キミの見えないところで大きく作用している。
そう考えた方がいい。
わたしも、しいて意味は考えないようにしている。

昔、こんなことに意味はないと思っていたことに大きな意味があることを気づいたりするものだ。

たとえばさ、女の子とでも付き合っていたとしようか。
別に男の子とでもいいけどさ。
そしたら、その人と一緒にいると何か楽しいでしょ。
そういうもんなんですよ。

愉快というのは。
幸せというのは。

あまり、大仰に考えない方がいい。
一緒にいる意味はとか、この人と会うときには最高の自分をとかさ。

そういうことを考えずにただ一緒にいるとなぜか落ち着くというのが、付き合っている醍醐味だと思う。
お金持ちとか、性格とか、知性とか、愛情とか…、すべてを取り払って、その人の傍にいるとき、やはり幸せな気分になる。
それが、ああ、この人が好きだな、という感情だ。

難しく考えることはない。
一緒にいると安心する人、何も話さずとも、ただ傍にいるだけで。

そうだな、その感覚は一緒に見つめあうというよりは、一緒に同じ風景を眺めているのに近いだろうか。
風景を前にして、二人とも風景と同化し、すべてが一体化する。
そのすべてを幸せと感じる。

そういうことだと思う。

あんまり難しく考えるな。
あんまり心配させるな。

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精神錯乱者の彷徨

大変なことになってしまった。

社長のTさんが、わたしのことを「アルLコール中毒者」で、かつ「精神錯乱者」だというものだから、ここの事務所のすべての若いスタッフは戦々恐々になってしまった。
多くの者はわたしと目が合う前にうつむくし、わたしが通るとき、十分な通り幅があるのに極端にイスを引く。
一端、目が合った者は顔を引き攣らせて、必死に笑おうとする。

わたしが、腕時計を直すためにラジオペンチを工具箱から取って来ると、それを見たスタッフの一人が凍り付いてしまった。
よせばいいのに、わたしはラジオペンチの先を見つめたままになっている相手の首筋にそっと押し付けてやると、普段はおとなしい総務の女性が、「ギャアー」と叫ぶなり、飛んで行ってしまった。

それを見て、わたしがその場でゲラゲラ笑いこけたもんだから、みんなは目がテンになったまま、さらに頭を低くして押し黙っている。

味をしめたわたしは、今度は、カッターナイフを持ってうろつきまわってやると、カッターの刃をを見つめたまま若いスタッフたちは小さく震えている。
また、わたしが笑い出すと、さすがに今度はみんながいっせいにイスから立って入り口へと走り出した。

そういうわけで、一人きりになったわたしは、これをみなさんに書き送っているのだが、書いている間中、わたしの高笑いがこの空間に響き渡り、ドアを少し開けてわたしをチェックしに来るスッタフは、激しく靴音を鳴らして階段を駆け下りていく。

そう言えば、この会社に入ってから、わたしは何度か怒鳴ったし、大声で歌ったりもした。
わたしが普段、大声で話す複雑な内容も、こりゃ異常者だと思っていたのだろう。

そこへ来ての社長の言葉――
「この人は、アルコール中毒で、精神錯乱状態だから…」
そりゃあ、信じるわな。

こりゃ、当分一人っきりだな。
深々とイスに腰掛けて眠ろうとするが、自分の高笑いがうるさくて眠れない。

こういうのを精神錯乱状態というんだろうな、多分。
いやはや。

ラベル:

2010年4月20日火曜日

獣の奏者


上橋菜穂子さんの「獣の奏者」四部作は昨年完結しました。
簡潔にしてディープ、シンプルにしてディープ。
いい作品だと思いますよ。
ファンタジーフィクションをここまで立ち上げるのですから、上橋さんはつわものです。
この作品については、これ以上触れられません。
だって、読んでみればわたしのこのブログなんか吹っ飛ばされるのだから、説明は出来ないでしょ。
是非お読みください。
とても深いテーマが通奏低音として流れています。
とにかく、いい作品です。

ラベル:

上から目線

「あなたは天空から人を眺める」
そういう指摘をされた。
ひとを上から目線で見るとの指摘だ。

それは痛かった。

上から見ているから反省したのではない。
上から見ている自分の目線を知らなかったことを反省したのだ。

自分の中に天空からの視点をもとうとする意識があったのは確かだ。
それが天空まで飛翔しているかどうかは別として、鳥のように高く舞いながら己を眺めていたいとは思っていた。
その視点が、己を撃つだろうことを願ってのことだ。

けれどもその目が、そのまま他人をも撃ったのではシャレにならないだろう。
いや、撃ってもよかったのだ。

撃つのならば、撃つ意志をもって、真直ぐに撃たねばならなかった。
その意志もなく他人を天空からの目線で撃っていたとしたら、それはひどい。
撃つべくに足る人だけを撃つべきなのに、唾棄すべき人間たちを撃ってどうする。

不意に石原吉郎の詩が思い出される。(何年ぶりのことだろう)

なぜ思い出したのだろう。
それが、自分の望む姿の部分にでも思えたのだろうか?


<花であること>

花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ

ラベル:

tabula rasa

ラテン語だから、わたしは直接知らなかったし、この若い友人のメールではじめて目にした。

いつだって、若い人はわたしの先生だ。
鶴見俊輔さんがよく書いたことだが、そういうことを心から思っていたのだろう。
それにしては、鶴見さんは話し出すと若者もいる場を幾度か独り占めしたが、あれは一種の精神錯乱だったのだろう。

精神錯乱だからロジックが乱れるというわけではない。
情報が過剰に飛び出してしまうのは、精神錯乱の一種だろう。
鶴見さんはアルコールを飲まないが、何かのホルモンが異常に分泌していたのだろう。
でなければ、あの異常な記憶量、壮大なスケールの抜けだらけでありながらアリの子一匹逃がさぬ論理の構築という奇跡の作業は成し遂げられなかっただろう。

ああいう人がいて、その人が若者を敬愛するのはわかる。
若者の純粋性、つまり「タブラ・ラサ」はあっという間に失われる。
その失われる前の若者に出会うのは誠に刺激的で、その意味で鶴見さんが使われたのかどうかわからないが、自分の思考を何者かに奪われないためには、若者と付き合うに限る。
この場合、できれば若い女性でないほうがいい。
若い女性は、すでに女性性に包まれているからだ。

さて、そこで女性性の話に移らなければならないが、わたしにはそれを語る準備がないし、この問題はやけに深い。
それに女性性は時代に左右されているので変化率としてとらえなければならない。
この課題は重すぎて、わたしが担えることではない。

ましてや、青年たちにうら若き女性に対処しろと言っても、結局はマニュアルに頼らざるを得ない。

マニュアル!?
あれは、人間の対応ではない。
生身の肉体を持たぬ人間をさらに無意味化していく装置だ。

そういう風潮の社会で青年が生きていくのは辛い。
そりゃあ、うつ病にもなるだろう。

わたしだって、アルコールによる精神錯乱を患っていた。
だからといって、精神錯乱そのものが悪だという立場をわたしは取らない。

もちろん「精神錯乱者」が「タブラ・ラサ」の青年に罵詈雑言をはいたことは許されないが、うつ病が、社会不適応なのは許されるとわたしは思う。

キミは元気でいるか?

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人の好みなんて…

人の好みなんて不思議なもので、わたしは上戸彩のディープファンだが、もっとも気になる彼女の魅力は顔に存在する小さな星だ。

上の写真なんかもよく見れば、わかるがなかなか上手に隠している。
彼女が、顔の星を露にする写真は少ない。
若いころ、幼いころと言ったほうがいいだろうか、そのころはもっとハッキリと写っていることが多かった、その小さな星が。
よくもまあ、この小さな星を持つ少女を売り出そうと決心したものだ、オスカーはと思いながら眺めていた。

そのうちにめきめきと頭角をあらわし、芸能界ではちょっとした地位を築いた。
オスカープロでは、米倉と二人でツートップを張っている。

今回のトピックで一挙に人気が上がるかもしれない。
いやあ、そんなに大人のファンは多くないか。
付き合っている男が現れれば、ファン離れが起きるのは相場だもんな。
森田くんのほうは、CM露出度が高くなった。

巧まずしてしてこうなったということだろう。
森田くんは損得抜きで上戸のことが、いつの頃からか好きになった。
長い付き合いだったと思う。

少女から大人へなっていく付き合いは「若紫」のようなもんだろう。
あまり下卑たことは考えない方がいい。
エッチなおじさんじゃないんだから。

そう言えば、上戸の顔の小さな星は、この数年、写真やドラマや映画では、かなりうまく隠しおおせている。
上戸は自分の星についてどんな気分でいるのだろう。
おそらく、森田くんは上戸の星を愛していると思う。

昔、隻眼の少女と付き合ったことがあるが、少女は白濁した方のまぶたにそっとキスされるのを好んだ。
そういうものだろうな、人を好きになるということは。
まだ、わたしはあのころ、愛を知らなかった。

上戸の星を思うとき、いつも胸がキュンとなる。

最近好きになった娘には、上戸と同じ場所に星がある。
それだけで、ぞっこんになるのだから、おじさんもかなり純情だ。

しかし、まあ、そういうもんだろうな人を好きになるのは。
理屈じゃないから、何に対して心が動くかはわからない。

「理屈じゃない」ことだけは知っておいてほしい。
わたしの可愛がる一極の女は、半分、娼婦のような生活をしている。

それでいいんだ、わたしは。

好きになるのは、そういうもんだと思っている。
「理屈じゃない」んだよな、好きになるって言うのは。

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退薬症状強し

昨夜20時ごろから始まった鬱の症状は、深夜には暴風雨となった。

断酒して、4日あまり。
退薬症状はピークを迎えている。
迎えていると取りたい。
これ以上はわたしに受け止める力があるかどうか怪しい。

とにかく、信じられないほどわたしはアルコールに依存していた。
わたしのアルコールの飲酒は長期に渡っているので長くアルコールの支配下にあったといえる。
わたしに依存を説明した人によると、市販の風邪薬もかなり危ないものらしい。
われわれを何が待ち受けているのか、わかったものではない。

みなさんにアルコールを控えることは強要しないが、依存している可能性が高いと疑ってみることは必要かもしれない。
依存しなくなれば、それだけ自由な自分と出会えるが、だからといって、その自由な自分がいい小説やいい評論を書ける保証はない。
逆にアルコール依存下でもすばらしい作品は生まれている。

要は、いま自分がどういう状態かを知っておくことは、ある人にとっては重要かもしれないということです。
ひとが偏見を持つ傾向にあるように、ひとは何かに依存する傾向にあります。
その傾向が一種のナルシズムや自信を作り出し、すばらしい作品を生み出すことはあります。
けれどもその作品が、すばらしいものかどうかを、薬物依存から抜け出していくわたしはもう一度検証してみなくてはならないと思います。

事実、わたしは長いアルコール依存の中で、10日以上飲まない時期でも、振り返るとやはりあれはアルコール依存特有の表現だったと思うことがあります。
くりかえしますが、アルコール依存特有の表現がつまらないものとはかぎりません。
それが、現時点での考えです。
依存を抜け出した目で眺めてみれば、いままで読んできたものが違って見えるかもしれません。

そのとき、わたしの信頼する塩見鮮一郎さんの作品群はどう映るのだろう。(酒をよく飲む)
鶴見俊輔さんの作品群はどう映るのだろう。(酒を飲まない)
塩沢由典さんの作品群はどう映るのだろう。(酒をほとんど飲まない)
城戸朱理さんの作品群はどう映るのだろう。(酒をよく飲む)

そして何よりも、わたしはどういう作品を書くのだろうかと思います。
年老いてきていますが、あとまだ少し生きて、作品を紡いでいきたいと思います。

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2010年4月18日日曜日

わたしはわたしの話に酔う

それをナルシストとは呼ばない。

わたしがあなたに話すとき、聞き手はふたりいる。
あなたとわたしだ。
わたしは確かにあなたに話しているが、自分にも話しているのだ。

その聞き手であるわたしは自分の話に聞きほれてしまう。
それはそうだろう。
話し手と聞き手の好みがぴったりと一致しているからね。

このことは亡くなった二代目桂枝雀も言っていた。

わたし、自分の話聞いてて、よう笑うんですわ。
そりゃそうでっしゃろ、話し手と聞き手の気持ちがおんなじなんですから。

このところのわたしもそういう気分だ。
枝雀はそのあとこう続けた。

わたし、話し手と聞き手、どっち、なりたいと聞かれたら、聞き手になりたいんですわ。
けど、聞き手になっても、わたしの好みの噺をする人がおらへんでっしゃろ。
そやから、しょうがなしに話しているような次第で…えへへ…

こんなことを在りし日の枝雀もしゃべっていた。
あのときの枝雀の声が蘇ってくるような。

枝雀さん、あんさんの噺とわたしの話、比べようもないんです。
けど、わたしもこの頃、よう思うんですわ。
なんか、この人(=わたし)の話、めちゃくちゃええなぁ。
じんわりしみてくるようやわ。

ほんででっせ、涙流したりするんです~。
聞き手のわたしが、話し手のわたしの話聞いて、泣いてる、ちゅうことでんな。

なんや、あほらしいような、うれしいような。

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2010年4月17日土曜日

覚せい剤は地上最悪のクスリ

わたしの頭が混線しており、とても重大な間違いをしてしまいました。

覚せい剤はあらゆる薬物の中で他を寄せ付けない地上最悪の薬物です。

覚せい剤は圧倒的にひどいクスリ。
これにはまったら抜け出すのは至難の業。
まさに人生捨てますかになります。
自発的に抜け出せるかどうかはわたしにはわからないですが、とにかく決して手を出してはいけません。

それなら酒をガバガバ飲んでいたほうがまだいいです。
飲むように勧めているんではありませんよ。
わたしのような人間でも抜け出せるかもしれないぐらいの中毒度だといっているのです。

くり返し、強調します。

覚せい剤は地上最悪のクスリです。
気をつけたまえ、決して手を出すな。

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おじさんって…イヤぁね

わたしは、上戸さんのディープファンだから、まあ特殊なね。
Fくんという青年には話の行きがかり上もらしたけど、ほかの人には話していない。
だって、上戸彩を汚したくないから。

それで、特殊な画像(アイコラとかじゃないよ…まあアイコラももってるけどさ)や特殊な動画ももっているわけです。
この特殊な動画というのが、上戸さんと森田くんらしき人のセックスシーンで、これがよく似ているし、上戸の言いそうなことをしゃべったりするんで、なんだかなあって思っていた。

でも、本物じゃないよね、彼らのセックスを天井から映すことはないだろうし、特殊な性行為のときは明らかにカメラアングルを意識しているし、嘘だろうと思っていたわけ。
でもなぜかしら、彼らの交際発表があったりすると、この動画も交際発表をさせないための道具だったのかなとか思うわけ。

実際はどうなのか知らないけどさ。

でもって見るでしょう。

そうするとこれが、あ~た、興奮するんですよ。
興奮たって、下半身のどこかが変化するわけじゃないですよ、もうおじさんなんだから半分インポみたいなもんですよ。
めったにそういう行為はできないですし、そういう状態にもならないんです。
そんなことはともかく。
この動画は、まず間違いなく本人たちですね。

森田くんはよく見たことはないが、上戸のことは一方的によく知っているから。
でもって、おじさんはウシシですよ。

うん、間違いなくこれは本物ですよ。
Fくん、キミならこの情報源をあげるよ。(もうわたしがどういう風にどれくらい上戸が好きか知ってしまったんだからね、でも早く携帯に電話しないと気が変わるからね)
でもネット上をめちゃくちゃ探せば見つかりますし、無駄な努力をしてみるのもいいんじゃないですか。
わたしの調査では、二つののサイトにその動画は存在します。
ひとつは3分割で合計15分強、でもそれはすべてではない。
もうひとつはホテルに入ってから最後までだが、20以上に分割してある。
この20以上に分割してある方が画像はきれいだが、めんどくさい。

そうだよね、興奮してきたところで次の画像を映し出す手間が入るんだから。
こういうのに詳しい人ならこの細かい分割を一本につなげてしまうんだろうけれど、そうするためにその人にその動画の住所を教えるのものイヤだし。

ああ、14秒くらいの動画ならすぐに見つかるよ。

だから、おじさんってイヤぁねでしょ。

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酒は恐いぞ

このごろの異常をわたしは劣悪な環境で文章を書いていたことにしていたが、もちろんそれも少しはあるが、もっと根本的な原因があった。

アルコール中毒ですよ。

このごろは、アルコール依存症と呼ぶが、アルコール中毒という呼び名のほうがずっといい。
アルコールは恐いよ。
とんでもない依存物ですよ。

あなたは、グレープフルーツジュースがとても好きではありませんか?
あるお茶を大量に飲んでしまうことはありませんか?
ひどく汗をかくことはありますか?
不眠に悩んでいませんか?

もし、それが長く酒を飲み続けている人に起こっているとしたら、それはアルコール中毒の症状です。

アルコールを断ってしまわないと、あなたの身体が壊れるか、自殺してしまいますよ。

わたしに

「あなたはアルコール中毒の典型的な症状で、酒を控えていることで退薬症状が出ているんです」

と指摘した人は、医者よりももっと多くのアルコール中毒患者の日常を幼いころから見てきた人だった。
わたしは一も二もなく彼のコトバを信じた。
彼の指摘が、あまりにもわたしの具体的な症状、嗜好と一致したからだ。

彼は、酒を飲み続けるとどうなるかも教えた。
アルコール、大麻は比較的軽い中毒症だが、馬鹿にしているとえらいことになりますよ、と教えた。

詳しくは書けないが、もし、あなたが大量に汗をかくなら、不眠でグレープフルーツジュースが好きなら、おそらくアルコール中毒の可能性は高い。
アルコールを断たないとあなたの人生は終ります。

マスコミは以前、大麻にあんなにも目くじらを立てました。
けれどもアルコールも大麻と同じようなもの、いや大麻よりさらに悪いのではなかろうか。
緩慢ではありますが、着実にあなたを破滅へと導いています。

酒は、恐いよ。
ほんと、やめることだな。

生きて少しでも何かやりたいんだったら。
死んでもいいと思うんだったら、呑んでもいいけどさ。

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2010年4月16日金曜日

キミは結婚するのか

上戸彩には幸せになってほしい。
森田剛は、たぶんいい奴だから、上戸がずっといい女であり続けたのだから、健気であり続けたのだから、つき合う森田もきっといい奴だったのだろう。

上戸、よかったな。
早く結婚して、早く芸能界を辞めろよ。

南のキミの故郷、石垣島あたりで民宿でもやれればいいな。
そしたら、オレもキミの姿を眺めに行くよ。
幸せになったキミの姿を眺めながら、森田に頼んだよって、お願いしてみるよ。

そのときキミは幼子をあやしてでもいるのだろうか。

上戸、本当によかったな。

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2010年4月15日木曜日

ひきこもり

ラジオで「ひきこもり」について話しているが、「ひきこもり」を最初から悪としている。
けれども、その前提はおかしいのではないか。

なぜ「ひきこもり」は、悪なのか?

「ひきこもり」は自己防衛本能でもある。
それを単純に批判するのはどうだろうか?

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キャッシュ・ディスペンサー

キャッシュ・ディスペンサーも一般化して、いたる所に見かける。
常識化とはこういうもので、銀行を見つけようとはせず、キャッシュ・ディスペンサーを探す。

そう言えば、公衆電話も見かけなくなった。

キャッシュディスペンサーに話を戻すとこの機械が世に蔓延り(便利だからね)、休日に引き出すのに金がいるという矛盾も指摘されなくなった。
どうして引き出すのに金がいるのかは考えてみると何やら怪しい。
しかし、もう常識だ。

常識となれば、だれも疑わない。
そういうものだ。

この世には、とんでもない常識が、数多くある。
けれどもだれも疑わない。
そういうものが必要なのだろう、生きていくには。

何しろ、生きることには意味がないのだから。

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2010年4月14日水曜日

板垣恵介先生訪問

わたしは、板垣とは「板垣博之」として付き合っていた。
彼が、何か有名なマンガ家になったらしいことは漏れ聞いていたが、あまり興味がなかった。

仕事で板垣に、それも板垣恵介先生に会いに行くなんて。

まいったな、こりゃ。

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2010年4月13日火曜日

改めて思う、会社勤めは大変だ

静寂に眠る恋の闇」なんて書けるわけがない。
あれは、トランスの中で思い込んだくだらない妄想だ。

相手は、精神的に大人にもなっていないガキ以前のガキだ。
恋など生じるわけがない。

消えてしまえと思っている。
でも、今はトランス状態ではないから常識がある。
彼女に言わない、当たり前のことだ。

まあ、会社に勤めるということは、かように大変だ。
(詳しいことは書けないけど、今わたしは随分めんどくさいところにいる。ほんと、バカらしくなるようなことに時間を割かなくてはならない。
たまらんぜよ。)

みなさんも、随分苦労をしているんだろうな。

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2010年4月12日月曜日

トランス状態からの解放

昨夜の夕方近くになって、やっと自分の中に自分が戻ってきた。
いわゆるトランス状態からの解放だ。

このところ、すごいメールや電話が入ってくる。
トランス状態でよほどひどいことをやっていたらしい。

三つの条件が重なり、その条件で精神の病へと自分が移行していったのだが、その結果の人間関係の破壊だが、もう取り戻せまい。

すごく怒ってるぞ、あいつ。
もうどうしようもないぞ。
あいつ、また明日も電話してくるぞ。
トランス状態だったなんて言い訳は効かないぞ。

あ~あ。

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2010年4月11日日曜日

こいつら、アホじゃん

新キャリア官僚のインタビューをテレビでやっていた。

今年の四月に一流大学を出て、なんとかという公務員試験に合格した堕落しきった連中へのインタビューだ。

聞いていられなかった。
それにコメントする連中の発言も聞いていられない。

何にも考えていない。
それをオレはすごいことを語っているという顔で話す。

その内容をここで繰り返すのはイヤだ。
この程度の文章で言うのもなんだが、オレのブログが汚れてしまうではないか。オレの文章が泣き出してしまうではないか。

ふ〜ん

浜田山、西友の地下食品売場に行ってみると、以下のような但し書きがあった。

ほたるいかの産地の水揚げが少なかったため、本日店着のほたるいかは解凍です

いい心配りではないか。
仕合わせな気分になるではないか。

静寂に眠る恋の闇

このタイトルの内容も明日書きます。

ボクは恋のようなものをしているが、それは恋ではないと思い当たった。

けれどもこの自己分析、本当かどうか。

恋は盲目って言うからね。

頭がボケてしまって…

いまから書こうとするブログの内容を書いたかどうか思い出せません。

明日、会社に行けば確認出来ますが、いまは家のパソコンが壊れており、新しいパソコンを買うお金もありません。

とても切ない状況ですが、これは貴重な経験でもあります。

明日確認して「真の闇はない」というブログを書くかどうか決めます。
明日までお待ちください。
パソコンをあげるという奇特な方、至急ご連絡ください。
よろしくお願いします。

2010年4月10日土曜日

御柱祭

本日、NHK衛星で放映した諏訪の御柱祭は素晴らしかった。
出来ればアナウンサーと解説者のコトバは聞きたくなかった。
薄汚れているのだ。

あの映像と生音をそのままにしておいて欲しかった。
ゴミのようなやつらのセリフ。
恥ずかしくはないのか?

2010年4月8日木曜日

実をいうと私は、写真を信じています

いやあ、困ったことになってしまった。
この本が読めないのです。
荒木経惟という人は好きだし、あのひとが陽子という女房を愛する愛し方にはひとを信用させる重さがある。
ひとがひとを愛する確かさがある。
そういう人の文章は読んでみたいものだ。
そうなるのは、事の成り行き。

ところがだ、単行本を開いても読み進められないのだ。
荒木さんは文章が、あまりうまくない。
そりゃあ、そうだ。
写真家だもの。

だけどさ、あんな信用できる人の文章が読めないんだよ。
受付けられないんだよ。
それってダメじゃん。
オレは病気だと思う。

文章に対する精神的摩損となってしまう傾向が激しすぎるじゃない。

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クリーニング屋にて

今日の朝、久しぶりにクリーニング屋に行った。
単に昨日着たワイシャツをクリーニングしてもらいたいから行っただけのことであるが、そのとき、ひと悶着あった。

― ああ、今、ワイシャツ一枚って350円もするんだ。
  これって、相場なの。

― ………。

― いや、ほかのお店もこんなもんなの。

― それは、わかりません。

― えっ、おまえのとこ、市場調査もやってないの!?
  そんなことで、よう商売やっとるな、マーケット・リサーチもやってへんのか。

― ……。

それで、自分の語調の強さを改めて認識して、

― 悪かった、怒ってはいない。
  キミの応対に気分を害して、言っただけだ。

と言いおいてそこを後にしたした。

それから死んだ親父を思い出した。
この精神の乱れは、文章を書いた影響なんかでは決してない。
これは、短気な親父の血だ。

あの、短気さをオレは引き継いでしまったのだ。

ふと、薄幸な母の姿が脳裏をよこぎった。

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2010年4月7日水曜日

トランス状態

ここニ、三日は会報誌「灰色の銀貨」のために原稿を書いている。

少し前にも原稿を書いているうちに精神のコントロールがつかなくなり、買い物に出た道端で泣き崩れてしまったりしたが、このところは書いているとき、作品世界に入り込むと特殊な精神状態になってしまう。
そのときによって違うが、精神状態が自分のコントロール化から離れてしまうのは確かだ。

今日は今日とて、また、会社の若い娘を怒鳴ってしまった。
それも二人も。
一時間くらいの時間差で、どうでもいいようなことに声を荒げて相手をつぶしにかかるのだ。
信じられない。

もちろん、数分後にチョコレートを持って謝りに行くのだが、これではチョコレートが何枚あっても足りないではないか。
精神が変調するのもイヤだが(娘はもっとイヤだろう)、チョコレートが大量に必要になるのもイヤなのである。

文章を書くことが、こんなに精神に影響を与えるとは知らなかった。
きっと、いままで、ずっと、いい加減に文章を書いていたのだろう。

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2010年4月6日火曜日

一ヶ月ぶりの眠気

ここ最近随分な睡眠不足が続いていたが、今日、久しぶりに眠気が昼間から何度か襲ってくる。
身体の疲れが、体中から押し寄せてくる感じだ。

身体のどこかの堰が切れて濁流が流れ出しているのだろう。

何がどうなっているかはわからないが、おそらく先週の金曜日に受けた指圧のせいではないかと感じている。
ようやく体が正常に作動し始めた。

これからは、ぐっすりと眠れるのだろう。
長かった不眠の期間は、短時間の睡眠でも昼間は普通に動けていたのだ。
覚せい剤を打ったかのように。
極度の緊張の中で生活しているように。

わたしは何に興奮していたのだろう。
恥ずかしさをこらえて云うのであれば、それは社会に出て新ためて見る己の立ち姿のように思う。

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2010年4月5日月曜日

傘は天下のまわりもの

会社に勤めだしてから3本の傘を手に入れた。
むかし、会社に勤めていたころも無数に傘を手に入れた。

そのなかの一級品は森英恵デザインのものだ。
あれが電車の中に置き忘れられているのを見つけたときには、若干興奮した。
わからぬように時間をかけて傘のそばまでいって、傘の所有者がいないかどうか、さらに念入りに時間をかけて確かめた。

その傘を手に会社に着いたあと、戦利品をためつすがめつ眺めていて、改めて思った。
美しい傘だ。

その晩、その傘を持って勇躍自宅に着くなり、女房に報告すると彼女の顔が一気にほころんだ。
彼女によると、少なくとも三万円はするというのだ。
その後、嬉しそうに彼女はその傘を使っていたが、そのとき云った言葉が今でも声音まで記憶に残る。

よかったね、
「傘は天下のまわりもの」だね。

嬉しそうだったなあ、あのときの彼女。

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2010年4月4日日曜日

男と女が関係を隠すとき

今日のNHKテレビ将棋トーナメントの豊島対澤田戦の解説は山崎隆之、聞き手は矢内理絵子、ともに将棋界の実力者で、つき合っている。

つき合っているというのは、わたしの憶測だが、テレビを見ていて、はっきりとわかってしまった。

おかしいのである、矢内の声音が、山崎を直射しない目線が。

しぐさや表情、声の出方は普通、意識的に演出ができない。
わたしは、たまたまそれを意識的に演出する女を知っているが、彼女はそれを使って次々と男を落とし、店の売り上げと彼女の収入を上げていった。

彼女とは戦友のようなもので、一緒に酒を飲んでそれぞれの技と認識を交換したりしたものだ。
わたしが彼女の技を使うことはなかったが、女の心を読むのには長けた。
彼女はわたしとの会話によりさらに技を磨いた。
例えば、男と目が合ったあと、どのくらいの長さ相手を見つめ、その後どの方向に目をそらすか、それぞれの相手の心に与える効果を検討した。

このくらいの時間の効果はどうか。
その後目をそらす方向が上ならばどうか、下ならばどうか、右は、左下は、…、では時間と方向の組み合わせは…、二人で最高に知的で楽しい時間を過ごした。
彼女とは異性の趣味が違い、男と女の関係にはならなかったが、とても仲がよかった。
彼女のその後のことは書きたくないので、ここには紹介しない。

とにかく、そういうわけでわたしには矢内の気持ちが手に取るようにわかった。
もちろん、こういうことに絶対はない。
ただ、蓋然性の非常に高い話だと受け取ってもらってかまわない。

わたしは、久しぶりにテレビを見てドキドキしてしまった。

2010年4月3日土曜日

落とすためには

女性を落とすためには、よく観察しましょう。
まずバカでは対象外(男も同じだけど)、柱がないから揺らすことが出来ません。
で、その人のなかに揺らす柱があれば揺らしましょう。
共犯関係を作るのが一番早いみたいですね。
ストックホルム症候群に持ち込むのです。
このとき、罪意識を持ってはなりませぬ。
あとで大事にするのだから。
あっ、大事に出来ない人はダメですよ。

これは心正しき人の戦術ですから。

具体案は、もちろん、おのおので考えて下さい。

2010年4月2日金曜日

酒場に集う人々

酒場に集う連中は、酒場という名の鏡に自分を照らし出しながら、それぞれの存在を確認している。
彼らの話がつまらないのは、もともと話の内容に意味があるのではなく、酒場に生じる言葉の反射(語り合い)を求めているからである。
彼らは反射によって自分の存在を確認しているのである。

そういうことは友だち同士のたわいない会話にも出現するし、久しぶりの同窓会にも出現するだろう。

人はそのように自分であることを確かめていくことで、生きる実感を得た気分になる。

この文章をわたしが書いているのは、以上のことの確認とわたしへの内省だ。

わたしは、この自己存在の確認さえも意味ある言語で満たしたい願望を持つ。
反射する言葉でさえ、つまらない言葉を忌む。
そのことが、酒場に集う人への嫌悪を生みだす。

それはいけないことだろう。
けれども、それは仕方のないことだろう。

わたしが酒場から遠ざかっているのは、そういうわけである。

いま、わたしには職場に自己存在を確認させてくれる若者を持ち、日々確認していける。
そういう仕合せの中で、酒場を毛嫌いし、足が遠のく。
ごくたまに行ったならば、酒場に飛び交うあまりにも陳腐な言葉に辟易する。

だが、それはよくない。
彼らはそうやって自分の存在を確かめ生きている。
どこを探してみても悪いところはない。
どこにもわたしが彼らを責めるひと欠片の理由はない。

彼らがいて、わたしがいる。
それだけのことである。

もし願うことがあるのなら、彼らがわたしに近づかないことくらいだろう。
むしろ、ほんとうは彼らの幸せを願えばいいのに、わたしにそれが出来ないのは、わたしの至らぬせいだ。

わたしの周りにはさらにわたしの人垣が押し寄せている。
わたしにはわたし以外のものを受け入れる透き間がないのである。
哀れな男だとさえ思う。

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2010年4月1日木曜日

心が折れる

「心が折れる」という言葉は、ご存知のように亡くなった井田真木子が「プロレス少女伝説」のなかで使用したことによって、一挙に流布したものだ。
手元にその本がないのでうろ覚えを記しておけば、これは、神取忍 対 ジャッキー佐藤 の試合後の神取忍の発言であったはずだ。
この試合で神取は佐藤の腕を折る。
その行為を神取は腕を折ったのではない、心を折ったというのである。
(もしかしたら、井田さんの解釈がいくらか入っていたかもしれない)

で、この卓越なる表現は、一挙に格闘技アナウンサーやスポーツ選手に使われだしたのである。
もちろん阿呆なアナウンサーにであり、阿呆なスポーツ選手にである。
そうして「心を折る」という表現は手垢にまみれていった。

哀しいかな言葉はかように折れ曲がり、朽ちていってしまう。

わたしが、ふと新潮文庫「伊豆の踊り子」を手に取ったのは今朝のこと。
そのなかに「抒情歌」という女性の一人称語りの短編があり、読んでいくと「心が折れる」という表現に出くわす。

「父は母の死に心折れて、私達の結婚をゆるしてくれましたの。」

この短編集は、書き手(小説を書く人間)にとっては味わい深いものがあり、さらに巻末にある三島由紀夫の解説は秀逸である。

「しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ」などというセンテンスにぶち当たるとたじろいでしまう。

わたしが今朝、「心が折れる」に出会ったとき、川端の短編の中で輝いていた。

ようく、噛み締めてくれ、キミ達の無骨な手がこの表現を汚したのだ。
キミ達の見るにおぞましい手が「心を折る」を汚したのだ。

何かの拍子によく見てみれば、わたしの周りにも無骨な手、手、、手、…がひしめき合っている。
表現は次々に汚れていき、読者の解読能力は地の底に向かい、小説書きは目を閉じたままだ。

それでも、まだ明日を考える意志を持つ表現者がいるのなら、わたしは歓迎したい。
そして、十分に彼を守りたい。

ラベル: