5月29日の歌
沢登秀信の「5月29日の歌」は名作である。
今宵、彼の歌を聴きに行くものだから、さっきから何度も確認しているが、この詩は実にすばらしい。
歌詩としての技巧もさることながら、描かれている世界が深い。
本人が知っていなくてこれを書いているとしたら、沢登のものを見る目の深度は尋常ではない。
わたしが、ようやく到着した認識を、30代の前半にすでに直感で捉えていた。
恐るべし、沢登の感性。
問題の箇所は次の太字部分。
この歌詩には注目すべき点が他にもいくつもあるが、今回は一点に絞る。
5月29日の歌 詞/曲:沢登秀信
川が流れるように
時はすぎてゆく
君と僕の恋も どこへゆくのやら
ベランダの君は
洗濯に夢中で
青い空が君の バックスクリーン
夏が近づいてる
葉桜の向こうに
フルーツの匂い 初夏の午前10時
白い雲がひとつ ふたりを越えてゆく
物言わぬ僕の 眼差しを越えて
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ
同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら
夏がそこまで来た バラの垣根まで
新茶の封を切る 君の顔が笑う
青い風が今 ふたりを過ぎてゆく
夏が笑っている カーテンの裏で
飲み干された湯飲み 覗き込むふたりに
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく
夏が笑っている きらめきの向こうで
行く先の決まらぬ 間の抜けた僕等に
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく...
とても魅力的な詩なので、そのことだけに注目してしまうが、この詩の直感的認識は深い。
わたしのいま思う男と女の関係の最も美しい姿がここに描かれる。
この説明は、多少複雑になるので簡略なものにさせてください。
ポイントを「異物」に絞る。
男は女を異物として自分の身の内に迎える。
異物として入った女は自分と同様の姿に男を変えようとする。(=逆に女は男を同化させようとする)
この視点で読むと沢登の詩は以下のようになる。
物言わぬ僕の 眼差しを越えて
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ
(キミに何も要求せず、キミを異物としてそのまま認めるわたしの前で、キミはいつもと変わらぬ異物の囁きをくれればいい…そう男は言っているのです)
同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら
(しかしながら、キミは異物の自分に合わせるようにわたしを変えようとしているのだろう。そのことをわたしは感づきながらまだ意識しようとしていないようだ…男と女の関係の最も美しい瞬間です。わたしは、いま現時点で、そのように感じている。それをすでに沢登はこのような美しい詩句で15年程前に結晶化させていたのです)
この歌だけで、十分なのに沢登という人は、さらに美しい詩とメロディーを創りだしている。
それは、まさに一つの到達点だが、そのことを多くの人は知らない。
知らないというより、この美しさに感応する感性を多くの人はすでにどこか道端に捨て去ってしまったのです。
沢登はその感性を後生大事に守り、ここまで生きてきた。
十分にめでられるべき才能だとわたしは思う。
わたしは、それを感じたとき、彼に深く頭を垂れることがある。
それが、才能に対する敬愛だ。
今宵、彼の歌を聴きに行くものだから、さっきから何度も確認しているが、この詩は実にすばらしい。
歌詩としての技巧もさることながら、描かれている世界が深い。
本人が知っていなくてこれを書いているとしたら、沢登のものを見る目の深度は尋常ではない。
わたしが、ようやく到着した認識を、30代の前半にすでに直感で捉えていた。
恐るべし、沢登の感性。
問題の箇所は次の太字部分。
この歌詩には注目すべき点が他にもいくつもあるが、今回は一点に絞る。
5月29日の歌 詞/曲:沢登秀信
川が流れるように
時はすぎてゆく
君と僕の恋も どこへゆくのやら
ベランダの君は
洗濯に夢中で
青い空が君の バックスクリーン
夏が近づいてる
葉桜の向こうに
フルーツの匂い 初夏の午前10時
白い雲がひとつ ふたりを越えてゆく
物言わぬ僕の 眼差しを越えて
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ
同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら
夏がそこまで来た バラの垣根まで
新茶の封を切る 君の顔が笑う
青い風が今 ふたりを過ぎてゆく
夏が笑っている カーテンの裏で
飲み干された湯飲み 覗き込むふたりに
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく
夏が笑っている きらめきの向こうで
行く先の決まらぬ 間の抜けた僕等に
立ち止まりもせず 時は過ぎてゆく...
とても魅力的な詩なので、そのことだけに注目してしまうが、この詩の直感的認識は深い。
わたしのいま思う男と女の関係の最も美しい姿がここに描かれる。
この説明は、多少複雑になるので簡略なものにさせてください。
ポイントを「異物」に絞る。
男は女を異物として自分の身の内に迎える。
異物として入った女は自分と同様の姿に男を変えようとする。(=逆に女は男を同化させようとする)
この視点で読むと沢登の詩は以下のようになる。
物言わぬ僕の 眼差しを越えて
いつもと変わらぬ 囁きをおくれ
(キミに何も要求せず、キミを異物としてそのまま認めるわたしの前で、キミはいつもと変わらぬ異物の囁きをくれればいい…そう男は言っているのです)
同じように見えて 少しづつ違う
君のことを僕は 知っているのやら
(しかしながら、キミは異物の自分に合わせるようにわたしを変えようとしているのだろう。そのことをわたしは感づきながらまだ意識しようとしていないようだ…男と女の関係の最も美しい瞬間です。わたしは、いま現時点で、そのように感じている。それをすでに沢登はこのような美しい詩句で15年程前に結晶化させていたのです)
この歌だけで、十分なのに沢登という人は、さらに美しい詩とメロディーを創りだしている。
それは、まさに一つの到達点だが、そのことを多くの人は知らない。
知らないというより、この美しさに感応する感性を多くの人はすでにどこか道端に捨て去ってしまったのです。
沢登はその感性を後生大事に守り、ここまで生きてきた。
十分にめでられるべき才能だとわたしは思う。
わたしは、それを感じたとき、彼に深く頭を垂れることがある。
それが、才能に対する敬愛だ。
ラベル: 作品
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