2010年4月20日火曜日

tabula rasa

ラテン語だから、わたしは直接知らなかったし、この若い友人のメールではじめて目にした。

いつだって、若い人はわたしの先生だ。
鶴見俊輔さんがよく書いたことだが、そういうことを心から思っていたのだろう。
それにしては、鶴見さんは話し出すと若者もいる場を幾度か独り占めしたが、あれは一種の精神錯乱だったのだろう。

精神錯乱だからロジックが乱れるというわけではない。
情報が過剰に飛び出してしまうのは、精神錯乱の一種だろう。
鶴見さんはアルコールを飲まないが、何かのホルモンが異常に分泌していたのだろう。
でなければ、あの異常な記憶量、壮大なスケールの抜けだらけでありながらアリの子一匹逃がさぬ論理の構築という奇跡の作業は成し遂げられなかっただろう。

ああいう人がいて、その人が若者を敬愛するのはわかる。
若者の純粋性、つまり「タブラ・ラサ」はあっという間に失われる。
その失われる前の若者に出会うのは誠に刺激的で、その意味で鶴見さんが使われたのかどうかわからないが、自分の思考を何者かに奪われないためには、若者と付き合うに限る。
この場合、できれば若い女性でないほうがいい。
若い女性は、すでに女性性に包まれているからだ。

さて、そこで女性性の話に移らなければならないが、わたしにはそれを語る準備がないし、この問題はやけに深い。
それに女性性は時代に左右されているので変化率としてとらえなければならない。
この課題は重すぎて、わたしが担えることではない。

ましてや、青年たちにうら若き女性に対処しろと言っても、結局はマニュアルに頼らざるを得ない。

マニュアル!?
あれは、人間の対応ではない。
生身の肉体を持たぬ人間をさらに無意味化していく装置だ。

そういう風潮の社会で青年が生きていくのは辛い。
そりゃあ、うつ病にもなるだろう。

わたしだって、アルコールによる精神錯乱を患っていた。
だからといって、精神錯乱そのものが悪だという立場をわたしは取らない。

もちろん「精神錯乱者」が「タブラ・ラサ」の青年に罵詈雑言をはいたことは許されないが、うつ病が、社会不適応なのは許されるとわたしは思う。

キミは元気でいるか?

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