2010年4月21日水曜日

今日は暖かい

人は気分で、ものを言う。

なるほど気分だろう。
「暖かい」も「涼しい」も気分だ。
相手に自分の気分を確認してもらって落ち着く、そういうことだろうか。

天候でも「暑い」とか「寒い」になると気分ではなく、実際に温度計もそれなりのものを示しているだろう。
そのときは、無意味な言葉を交わす挨拶となる。

「暑いねえ」
「寒いねえ」

言わなくてもいいようなものだからね。
けれども、この言わなくてもいいことを言い交わすことで、お互いの気分を保持している。

要は、暖かい、暑い、涼しい、寒い、はどれもこれも挨拶であったり、挨拶のようなもので、言葉を交わすことで、お互いの存在を確認し合い、その存在を自分に大丈夫だと言い聞かせているのだろう。

わたしは、本人ではないから、本当のところはわからないが、まずそうなっている。
人の存在はそれほど弱いということだ。

だから、何によらず意味だけを追いかけていくと、ろくなことにならない。

こんなことって意味ある?

なんて、貧困な頭で考えないことだ。
意味はある。
それは、キミの見えないところで大きく作用している。
そう考えた方がいい。
わたしも、しいて意味は考えないようにしている。

昔、こんなことに意味はないと思っていたことに大きな意味があることを気づいたりするものだ。

たとえばさ、女の子とでも付き合っていたとしようか。
別に男の子とでもいいけどさ。
そしたら、その人と一緒にいると何か楽しいでしょ。
そういうもんなんですよ。

愉快というのは。
幸せというのは。

あまり、大仰に考えない方がいい。
一緒にいる意味はとか、この人と会うときには最高の自分をとかさ。

そういうことを考えずにただ一緒にいるとなぜか落ち着くというのが、付き合っている醍醐味だと思う。
お金持ちとか、性格とか、知性とか、愛情とか…、すべてを取り払って、その人の傍にいるとき、やはり幸せな気分になる。
それが、ああ、この人が好きだな、という感情だ。

難しく考えることはない。
一緒にいると安心する人、何も話さずとも、ただ傍にいるだけで。

そうだな、その感覚は一緒に見つめあうというよりは、一緒に同じ風景を眺めているのに近いだろうか。
風景を前にして、二人とも風景と同化し、すべてが一体化する。
そのすべてを幸せと感じる。

そういうことだと思う。

あんまり難しく考えるな。
あんまり心配させるな。

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