2010年4月2日金曜日

酒場に集う人々

酒場に集う連中は、酒場という名の鏡に自分を照らし出しながら、それぞれの存在を確認している。
彼らの話がつまらないのは、もともと話の内容に意味があるのではなく、酒場に生じる言葉の反射(語り合い)を求めているからである。
彼らは反射によって自分の存在を確認しているのである。

そういうことは友だち同士のたわいない会話にも出現するし、久しぶりの同窓会にも出現するだろう。

人はそのように自分であることを確かめていくことで、生きる実感を得た気分になる。

この文章をわたしが書いているのは、以上のことの確認とわたしへの内省だ。

わたしは、この自己存在の確認さえも意味ある言語で満たしたい願望を持つ。
反射する言葉でさえ、つまらない言葉を忌む。
そのことが、酒場に集う人への嫌悪を生みだす。

それはいけないことだろう。
けれども、それは仕方のないことだろう。

わたしが酒場から遠ざかっているのは、そういうわけである。

いま、わたしには職場に自己存在を確認させてくれる若者を持ち、日々確認していける。
そういう仕合せの中で、酒場を毛嫌いし、足が遠のく。
ごくたまに行ったならば、酒場に飛び交うあまりにも陳腐な言葉に辟易する。

だが、それはよくない。
彼らはそうやって自分の存在を確かめ生きている。
どこを探してみても悪いところはない。
どこにもわたしが彼らを責めるひと欠片の理由はない。

彼らがいて、わたしがいる。
それだけのことである。

もし願うことがあるのなら、彼らがわたしに近づかないことくらいだろう。
むしろ、ほんとうは彼らの幸せを願えばいいのに、わたしにそれが出来ないのは、わたしの至らぬせいだ。

わたしの周りにはさらにわたしの人垣が押し寄せている。
わたしにはわたし以外のものを受け入れる透き間がないのである。
哀れな男だとさえ思う。

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