2010年4月1日木曜日

心が折れる

「心が折れる」という言葉は、ご存知のように亡くなった井田真木子が「プロレス少女伝説」のなかで使用したことによって、一挙に流布したものだ。
手元にその本がないのでうろ覚えを記しておけば、これは、神取忍 対 ジャッキー佐藤 の試合後の神取忍の発言であったはずだ。
この試合で神取は佐藤の腕を折る。
その行為を神取は腕を折ったのではない、心を折ったというのである。
(もしかしたら、井田さんの解釈がいくらか入っていたかもしれない)

で、この卓越なる表現は、一挙に格闘技アナウンサーやスポーツ選手に使われだしたのである。
もちろん阿呆なアナウンサーにであり、阿呆なスポーツ選手にである。
そうして「心を折る」という表現は手垢にまみれていった。

哀しいかな言葉はかように折れ曲がり、朽ちていってしまう。

わたしが、ふと新潮文庫「伊豆の踊り子」を手に取ったのは今朝のこと。
そのなかに「抒情歌」という女性の一人称語りの短編があり、読んでいくと「心が折れる」という表現に出くわす。

「父は母の死に心折れて、私達の結婚をゆるしてくれましたの。」

この短編集は、書き手(小説を書く人間)にとっては味わい深いものがあり、さらに巻末にある三島由紀夫の解説は秀逸である。

「しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ」などというセンテンスにぶち当たるとたじろいでしまう。

わたしが今朝、「心が折れる」に出会ったとき、川端の短編の中で輝いていた。

ようく、噛み締めてくれ、キミ達の無骨な手がこの表現を汚したのだ。
キミ達の見るにおぞましい手が「心を折る」を汚したのだ。

何かの拍子によく見てみれば、わたしの周りにも無骨な手、手、、手、…がひしめき合っている。
表現は次々に汚れていき、読者の解読能力は地の底に向かい、小説書きは目を閉じたままだ。

それでも、まだ明日を考える意志を持つ表現者がいるのなら、わたしは歓迎したい。
そして、十分に彼を守りたい。

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