娘のくれたネクタイ
それをふと思い立ち、昨日会社に締めて出かけた。
なんとも軽い濃紺と金のレジメンタル-タイだ。
これは、いいなと嬉しくなっていたが、少し暑くなった午後、タイを緩める際にふむ? となった。
手触りにこれは…と気づいたのだ。
あのとき、娘は中学に入るか入らないか、わずかな小遣いを工面してこのタイを選んで買ってくれたのだろう。
柄の趣味はいいものの薄手のポリエステルのタイ。
値段としては安いこのタイを娘は手のひらに握りしめた千円札で選んで買ってくれたのだろうか。
そのとき握りしめていた娘の千円札のぬくもりを思うと急に涙が溢れた。
有り難すぎてネクタイを締めているのがイヤになってくる。
その場にうずくまりそうになってしまう。
ひとは、自分を放り出したままでいると社会の組んだプログラム、物語が、簡単に刷り込まれてしまう。
あのころ、わたしが娘と握りあっていた手を離してしまったことを思い出す。
離れた娘は母親と一緒に水泳に夢中になっていった。
母親は社会の組んだプログラムの渦中にすでにどっぷりとつかっていた。
娘がプログラムの住人になるのにさほどの手間はかからなかったろう。
昨年、彼女は1年間のアメリカ留学を終えて日本へ帰って来た。
英語も十分上達したし、楽しい異国の学生生活を過ごしてきたと母親であるわたしの妻から聞いた。
見ようによっては順風満帆、何の不満もない生活が娘にはあった。
しかし、わたしは辛いのだ。ついつい娘が見えなくなったこの世界を思ってしまう。
あのとき、娘の手を握りしめていさえいたら、娘は今わたしの見る世界が見えていたはずだ。
日本社会のプログラムが刷り込まれて長い彼女に見える世界はどんなだろう。
そこでは要らぬ努力も必要なのだろうな。
人に勝つことも必要なのだろうな。
勝ち組や負け組があるんだろうな。
なあ、娘よ、キミには家の近所にある舗装の割れ目から成長して咲くあの雑草が見えているのか。
小さなうちの庭の西の隅、キミのおじいちゃんが植えた山椒があんなに大きくなったのに去年枯れてしまったことを知っているのか。あれは父さんがバカだから変な時期に剪定して枯らしてしまったんだよ。
ごめんな。
バカだったよ、おまえの父さんは。
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子か゛返つて来るぢやない
不意に中也が聞こえてくる。
また、会えるかな、おまえに。
しっかり父さんが生きていれば、またおまえに会えるのかな。
こんなに近くにいるのに触れあえぬ娘よ。
父さんは、おまえのくれたネクタイを握りしめているよ。
こんなにもしっかりと握りしめているよ。
あのときも、こうやっておまえの手をしっかりと握りしめていたらよかったね。
娘よ、おまえは今、どんな風景を眺めているんだい?
その世界は楽しいかい?
その世界はおまえに十分優しいかい?
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