2010年3月28日日曜日

さらに「遠まわりの雨」

大きなことは何も起こらない。
カット割りもやさしく、長回しや人物のアップを多用する。
ロングショットや俯瞰や移動の映像には背後に確かな絵コンテがあるとわかる。
丹念な作りを映像から十分に察した。
セリフの少なさも異常なくらいだ。

で、つまりどうだったの? と尋ねられれば、今どきのドラマではなかった、と答えるしかあるまい。

映画のごときカメラワーク。
俯瞰にしろパンにしろ移動にしろカメラの動きだけを見ても予算がかかっているのがわかる。
いい絵だったし、役者もそれに応えた。
渡部謙が夏川結衣がセリフのないアップに動きの極めて少ない表情での演技で応えた。
セリフは削ぎ落とされ、説明はほとんどない。
山田さんだな、と思う。
そして、今どきのドラマでないことを思う。

テレビは視聴率勝負だから視聴者に媚びる。
見ている者が簡単にわかるように作られる。
その結果、作品のレベルは落ち、さらに視聴者のレベルも落ち続けた。

視聴率を上げるのには「遠まわりの雨」ではダメなのだと思う。
視聴者にあまりに多くのものを期待しすぎているから。

多分、山田さんは視聴者もこれくらいは登って来てくれ、と妥協せずにシナリオを書いたと思う。
視聴率よりも大事なものがある。
金儲けより大事なものがある。
人と人との関係はこのドラマのようではなかったか?人はこのように誰かを思い続けることがある。
若者はこういう大人に感応する繊細な動物ではないのか?

いちいち、そうだよなとわたしは反応する。
けれども、このドラマは誰でもにわかるように書かれてはいない。
視聴率を無視している。
無視しなければ、コアな視聴者には届かないと書き下ろしたのだろう。
テレビ局にもいい奴がいて、それを受けたのだろう。山田さんの脚本だから。

見終わったとき、ああ、これではダメだろうなと思った。
そして、わたし自身にはいくつかの思いとドラマがスパークして何かか焼き付けられた。

日常にちょっとした事件が起こった、ただそれだけのことに大きなドラマが存在すると山田さんは言った。まことににそうだとわたしはうなす゛いた。
ついにはそれだけのドラマであった。

投げ出されたこのドラマを一体何人が受け取るのだろうか。

視聴者は変わることがあるのか?
変わらなければ、このようなドラマはもう見られなくなるのか。
描かれた下町の生活はなくなってしまうのか。
渡辺謙の娘はどうやって生きたらいいのだろう。

愛することがこんなにも不自由なとき、あなたの愛のDestinationはどこにあって、あなたはどうやってそこにたどり着くのか。
そもそもあなたは人がどのように人を愛するか知っていたか。

いいドラマだった。
そして、ダメと判断されるだろうドラマだった。
そうでない判断をわたしは切に願っている。

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