2008年8月31日日曜日

所詮書いているときが…

わたしの場合は、書いているときが幸せなのだなあと思う。
それがいい作品であろうとなかろうと、何ものかをつむぎだしているときが幸せなのだなあと思う。

それが、わたしの生きていく小さな支えなのだろうと思う。

しかし、小さな支えはその人は実感できても他者には届かぬところにあったりする。
それを相手に対して「想像力の貧困」というが、この貧困をどこまで責めていいかは難しいところで、もともと「想像力」などという淡いものをいつまでもその人が体のうちに閉まっておいてくれることが稀有なことで、哀しいかなそういう人とはなかなか出会えはしない。

だから、もしも万が一そういう出会いがあったとすれば、お互いにとても大事にしようではないか。

そして、結果として無粋な人と出会ってしまったならば、なるべく早く別れてしまおうではないか、そういう細やかな動きのなかでしか、人は生きていけないのではないだろうか。

もっとも無骨に生まれ、他者をなんとも思わない人々はまったく違う人生観を持っているのだろうが…

ラベル:

2008年8月30日土曜日

食わなければ生きてはいけない

とにかく体に栄養を入れ込むことだ。
そのことが、少しずつの匍匐前進につながる。
まだ、前に向かって生きる気があるならば。

このことは、本当に事実だ、酒を飲んだくれた後、水分しか体が受け付けなくなれば、何の力もなくなり、死だけを願う。
それもみじめったらしいことに、誰かの与えてくれるだ。

だから生きていくためには、何かを食らわなければならない。(食らえるようになるまで身体が戻るのを待たなければならない)
食らうことによって、わずかに残されたわれわれの生きる意志の背中を押してくれる。

いつも書いている。
生きることに何の意味もない。
何の意味もないということは、その意味を何に託してもいいということだ。

しかし、酒とドラッグ、それになにやらわからぬ体に栄養を入れることを妨げるものは拒否しなければならない。
食らわなければ生きていけないからだ。

これが、長くかけてわたしのわかったことだ。

だから、せいぜい食らってほしい。
食らえばあなたの意思も少しは元気になる。
そうすれば、いろいろなものに目がいくだろう。

それは旬になった巨峰であるかもしれないし、必要もないのに雨に降られ続けるアジサイかもしれない。
一個の女かもしれないし、それはろばたの石かもしれない。

その石に生きる価値を見出せるだけの強さを持ったときにあなたは必ずや生きていける。
あなたが何かを見出すときには、すでに「生きることに何の価値もない」などというわたしのたわごとを捨ててしまえばいいのだ。

ほんの小さなもの、ああ、こんな小さなものに輝きを見つけたのか、そのようにわたしを驚かせてくれるあなたであってほしい。

100mを10秒を切って走ることに生きがいを見つける人もいれば、どこかわからぬ湖畔を取るに足らない(そう誰もが言うかもしれない)女の子と手をつないで歩くことに、人は自分の生を賭けて生きていけるのだ。

「生きることになんらの意味はない」とはその自由さへの憧れのコトバだ。

あなたの幸せな人生を願う。

ラベル:

大雨が降っている

そりゃあ、これでも天変地異の一種なのだから、ニュースでもつければいろいろなことが起こっているし、それに対して、なにかうれしさを感じるというのは、人の道にあらずなのだが、もともと人の道を歩いているのではないのだから、ふとああ、すべて流してしまえなどと、のんきに激しいい雨の音を聞いている。

床上浸水や土砂崩れ、あるいは死人も出たというのになんと非道なとお叱りを受けるのだろうが、もともと自然に対しての感覚などはそういうもので、お叱りはすべて人間の側から出たものであり、最近はサルが、シカがイノシシが里に降りてきて困っているという発言や、遠い東南アジアに象の被害が起こっているのと変わりはないのではないだろうか。

ときどき、このように自然災害の危険にさらされて、人は自分たちのおろかさや脆弱さを感じながら生きていくものではないのだろうか。

避けられるものは人災に過ぎず、その意味でテレビの画面で久しぶりに見る中村哲氏の顔は見るに忍びなかった。

この大雨、人が生きていくうえの何かの救いにもなっていることを批判を覚悟にここに記しておきたい。

ラベル:

権太楼の大落語論


この本を読んでいるといろいろなことが見えてくる。
それは、立川談志に対してもうひとつ納得できない部分であるとか、小三治がやはり現代の名人ではないかという疑問だとかなのだが、権太楼師匠にはずいぶん教えられた。

しかし、枝雀に関しては、権太楼師匠の立場はとらず、わたしは、あえて彼のあのひ弱さを愛していこうと思っている。

ご存知のようにわたしは生き続けていくことに大きな価値を見出してはいない。
だからといって、早く死んだほうがいいというような死に対する憧れを持っているわけではない。

ただただ揺れ動いてるに過ぎず、自分でも処しきれぬ自己否定へなびいていく自分が存在することを知っているに過ぎない。
過剰なものを持った人間の宿命だろうし、過剰なものを持ったところで権太楼師匠のような人がいるところに救いを感じることもある。

しかし、これはまるっきりな嗜好なのだが、枝雀のぽきりと折れてしまうようなあの危うさを見捨ててしまうことはできない。

聞き書きのようなこの一冊、落語ファンならば、大きな参考になると思う。
その内容に反対であっても賛成であってもそのしゃべりのなかの真摯さは得がたいものだ。

改めて書くことではないが、柳家権太楼、当代きっての噺家である。

ラベル:

2008年8月29日金曜日

生きていくのが正しいなんて…

人は暗黙裡に生きていることを正しいと思い、その正しさを追い求めているが、そんなことが本当に存在しているのだろうか。
一編の詩を書くただしさはあっても生きていく正しさなどどこにもないのではないのか。
ためしに自分の人生を振り返り、何かをそこに探してみたらいい。

だが、だからといって、死んでいく理由もまたほど遠い。
俺たちは、あるいはお前とオレは、あるいはあなたとわたしは、どこに行こうとしているのだろうか。

すべてを気散じに押し付けて、それでも生きていいなどといいながら、ほんとうにどこへ行こうとしているのだろうか。

いっそ、人生など暇つぶしとしてしまったほうがよかろうものに。

学問が貧乏人の暇つぶしだと看破したのは、立川談志だが、そう外れてはいまい。

生きていくことなど、自分で理由をつけるしかない手慰みだ。

だから、せいぜい、つまらぬ自死だけは避けてしまおうではないか。

ラベル:

2008年8月26日火曜日

なつかしい友人

懐かしい友人と電話で話した。
ありがたいと思った。

ときには、こういう風な人と出会う。

まったく関係のない話だが、ちなみに、わたしの好きな女優は、フェイ・ダナウェイだ。
「俺たちに明日はない」の。

ああいう女に会ってみたいものだ。
言わずもがなだが、気が強くて、わがままで、やさしい女だ。

わたしは、身を滅ぼす恋をしてみたい。

だから、あなたは、わたしを殺してさえくれればいいのだよ。
そういうわたしの心がわかってくれるのだろうか、あなたは。

ラベル:

2008年8月25日月曜日

本を読む

どれくらい本を読むのですか? とか、
土日で10冊読んだ、とかいう話があるが、それはそれだけの話だ。

昔、就職試験を受けに入った会社の社長が面接のときに自分の机の上に積み重ねられた3,40冊の本を指さし、これを次の仕事のために明日までに読まなければならいのだよ、と自慢げに言っていた。
面接されていたわたしは、読まなければならないのだったら読めばいいのではないかと内心でせせら笑っていた。
もうそのころには立派に人を軽蔑もする術を持つつまらぬ下衆にわたしは成り下がっていた。

3,40冊の本を一日に読むためにはそれなりの読み方があり、精読するわけではない。
人は自分の本の読み方に当てはめて、その本の量に圧倒されるが、量を読む人間のほとんどは、なに、ええ加減に読み飛ばしているだけだ。(そうではない人もいるが、気にするな。あれは天才だ。わたしの知る限り数人しかいない)

だから、あの本を、たとえば「千のプラトー」を読んだからといって、(わたしはそれほどあの本に感心していない。そういう読み方しかわたしにはできなかったということだ)驚くことはない。
要は、どう読んだかだけだ。
精読するにたる本もあれば、読み飛ばすに限る本もある。

何冊読んだかは、何の役にも立たない情報だ。

問題はどう読んだかだ。

何を知っているのかが問題ではない。
何をどのように知ってしまったかが問題なのだ。

ロマンティックすぎるかな。

ラベル:

ミニロトラ


生ハムではハモンセラーノが個人的に好きなことは昔書いたが、この「ミニロトラ」はモッツァレラチーズでプロシュートハム(イタリアのあれですね)を巻いたもので、ワインと抜群の相性を示す。
もちろんワイン以外でも合うが、とにかく塩味の強さに負けぬ深い味わいを持つもので、この種の酒のつまみとしては、これに太刀打ちできるものは数少ない。

わたしは、実は、今宵、これをつまみにワインを一本飲んだところだ。
ワイン名は書くに値しないもので、そこがわたしの貧困の誇りである。

しかし、なんにしろうまいものを口にする快感というものは確かにあり、あれこれ美食家を揶揄するわたしだが、それはそれ、その愉快さを知っている嫉妬なのかもしれない。

雑感として、ここに書く所以である。

ラベル:

読んでいる本のなかに…



読んでいるなかにわたしの見知っているものや人が出てきたケースはいくつかあったが、特別なものは、ふたつである。

ひとつは水上勉の「飢餓海峡」の女主人公、八重が下北の花街から東京に出てきたとき、最初に就職する居酒屋の「埼玉屋」である。
当時の「埼玉屋」は、今のオーナー関根紳太郎のおじいちゃんがやっていたころで、まだあの思い出横丁にバラックの飲み屋がぐじゃぐじゃと集まりだしたころだった。
その様子がよく書けていて、ああ、その「埼玉屋」がこうなったのかと感慨深かった。

もうひとつはおそらく船戸与一がライフワークのように思っているのではないかと推測される「満州国演義」の第三巻「群狼の舞」に出てくる「満州国の財政確立のために大蔵省から営繕管財局国有財産課長・星野直樹」氏である。
この人は、ナイロビでわたしが大変お世話になった星野芳樹氏の長男で星野家では相対立する立場の二人であった。(だからといって、決して兄弟仲が悪いわけではなかった、と星野さんからは聞いている)

本のなかではあるが、こういう出会いがあると、妙な感慨に浸る。
それは、死んだ母親の昔話を聞くような感じでもある。

ところで、これは内心の思いだが、日本という国にとって満州国の建国から滅亡は大きな経験であり、このことが具体的にとって日本にどういう影響を与えたかは単なる読書体験だけでなく、わたしの中にもひとつの意見として立てておきたいという気持ちがあり、少しずつ資料を集めたりもしている。

何であれ、思いをのせる船はほしいものだ。

ラベル:

2008年8月24日日曜日

スクガラス

写真でも載せればいいのだが、載せてもその姿は見えないので、載せないことにしよう。(めんどくささも多々あるのだが)
沖縄の食材で、余り、残ってしまうものがある。

たとえば、スクガラスの瓶詰め、豆腐ようの漬け汁。
これらは塩味や隠し味に利用するのがよかろうと思う。
スクガラスの方は細かくみじん切りにすれば、これは魚醤のようなもので、おいしい東南アジア風の焼きそばを作るときに便利なものだ。
もちろん焼きそばでなくとも東南アジア風の野菜炒めでもかまわないし、煮物に隠し味として入れてもかなわない。

豆腐ようは、これは中華のほうに味が合うようで、腐豆腐の上等なものと考えていただければいい。
これを入れた野菜炒めはとてもおいしいです。
しかし、本当は、これを隠し味にした煮物がよろしいようで、それは各人が考えてほしい。
豆腐ようはかなり塩辛いわけだから、味の強いものの隠し味になる、というのがヒント。

それから、どちらもスパゲティによく合うことはアンチョビなどを思い浮かべてみていただければよくわかることでしょう。

ラベル:

2008年8月23日土曜日

オリンピックの間に

24日は確か、オリンピックの閉会式。
8日から始まったはずだから、オリンピックは20日間にも足らずといった期間だったが、その間に、世界でも日本でもいろんなことがあった。
しかし、注目はされなかった。

マスコミに翻弄されるわれわれの姿はそのようなものだ。
われわれの心の中に何か憎しみのような感情がなければ、おそらく翻弄されるだけのことだろう。
権力のマスコミ操作は巧みだ。

それに打ち勝つには、あなた自身ではなく、信用するにたる確かな誰かを何人か見つけておくことだ。
そしてその人の言説を追い、そのれに対して批判し、賛同するしかない。

いまや、強烈な勢いでマスコミはわれわれにのしかかっている。

オリンピック放送のなかにもいいものがあった。
しかし、その間、グルジアの人々にはほとんどオリンピックへの興味が起きなかったことも知っておくべきだろう。

少しずつ、この間にあったことをみなで検証していこうではないか。

ラベル:

「エル・コンドル」を見る




1970年度製作の古い映画だ。
ジャン・ギラーミン監督「エル・コンドル」
脚本にはラリー・コーエンもかんでいる。

名作か?
そいつはわからない。
俺にはたいていのことがわからない。
わかることは数少ない。
お前が信じられるかどうかぐらいだ。

さて、この映画には、ジム・ブラウン、リー・ヴァン・クリーフ、マリアンナ・ヒルとわたしの三人のお気に入りが出演している。
そういうわけで見るわけなのだが、見た後に不満は残るまい。
それが佳品というもんだし、西部劇の佳品だ教訓も残らない。

人生と同じだ。

ほんの少しだけ幸せな気分になる。

そのほんのすこし楽しかった個人的な記録をここに記しておきます、俺の幸せの記念として。

ラベル:

オリンピック

オリンピックなんぞはあまり見ないといいながら、テレビをつけるとついつい日ごろ見慣れぬ人間の真剣な姿に見ほれてしまい、長時間見るということがそこそこにあったのだ。
そして、その小心地よい感動をよそに、その競技の感想や別のチャンネルのバラエティ番組を見るたびに頭が痛くなってしまうのだった。

個々に家庭でテレビがどのくらい侵食してきているのか、つまり、どのくらいの時間、つけっぱなしにしているのかは知らないが、あんなものを見ていては白痴になるのは当然のことで、それよりかは、石や木や波を見ていたほうがずっといい。

それでもときどきいいプログラムに当たってしまうとテレビもいいもので、そのへんの兼ね合いはわたしの立ち入るところではないのかもしれない。

競技直前の選手の顔はまさに主体者の顔でああいう顔を、自分も年に何度かはしてみていものだし、ああいう顔の人間を眺めていたくも思う。

今日は、心がふらついて、またまたうなぎ丼を作ってしまった。
うまいものはうまいと正直に言っておきたい。
そのときに付け合せにした手製のぬか漬けもごくごくおいしかったが、それが救いかもしれない。

このところの涼しさのせいだろうか。

ラベル:

2008年8月22日金曜日

弥勒世


1970年のコザ騒動に向けての沖縄がこの本には書かれているが、今の沖縄には、その何もかもが払拭されてしまっているとはわたしには思えない。

「沖縄」という場所は通常リゾート地として理解されているが、少しわかっている人間なら、基地の街としての理解もあるだろうし、沖縄地上戦の悲劇も知っているだろう。
しかし、その具体的なありようは、わたしはこの本を読むまでは知らなかった。

これは、創作であるから、すべて歴史的事実ではないのだろうが、ロマン・ノワールでしか書けなかったのだろう小説になっている。
そこには、「人は何かを信じて生きる」と書いたわたしを裏切る人間が(裏切らざる人間)、描かれ、その人間たちが必死に信じようとするもの、すがりつくものが描かれている。

そして、彼らの思いを沖縄という土地がずたずたにしていくのだ。

「琉球」
そこは薩摩が支配した土地であり、日本が本土を守るために見捨てた土地であり、その後アメリカにいいように陵辱されていく土地であった。「弥勒世」はそのアメリカの陵辱具合と、その陵辱に寄り添い生きていくうちなんちゅーが描かれていく。
そこには想像を絶する、世界が描出される。

そのアメリカからしてブラックとホワイトとの激しい対立があり、うちなんちゅうのなかにはブラザー相手の歓楽街と全軍労の対立があり、もっと戻れば、奄美大島出身者のへの差別があり、宮古出身者への差別があり、あいのこへの差別があり、…すべては構造的に出来上がっている。

ある差別は別の差別を生み出しバランスをとろうとするのだ。

それは、ベトナム戦争時にベトナム人が中部山岳地帯の民族を差別したように単純にアメリカ対ベトナムではないいくつも差別意識が絡み合って出来上がっている。

そのなかで一個の男はどのように生き、その男にほれた一個の女はどのように生きたかがこの本の内容だ。
おとこは「魂(マブイ)」を落とした男であり、その空虚さを破壊によって満たそうとしていた。
女は、その男を愛し、自分の「マブイ」を平和な世界と理想論に託していたのだが、次々と解体されていく。
解体される途中、女の思いが「男のマブイ」を占める瞬間が生じるが、それは永遠には続かない。

永遠に続いてほしいと思うのだが、それをあの当時の沖縄は許さない。
この伊波尚友と照屋仁美の関係、愛憎、恋愛は沖縄に翻弄されていく。
沖縄にとって何の価値もないからだ。

いったいに、祝福される恋愛など、どの世界にあるのだ。

確かに政信やマルコウは二人の愛の成就を願ったが、かなわぬものとも感じていた。

なんだろうな、人が生きていくというのは。

沖縄に興味があれば、読んでみればいい。
沖縄はすばらしい場所でもあこがれる場所でもない。

それより何より、彼らをわれわれが、どのように利用しているかをわれわれ自身が知らなすぎる。
われわれとは、われわれのお国とアメリカがだ。

ちなみに沖縄の性に対する開放的な雰囲気が、そがれていくのは、薩摩が占領して以降だ。
その薩摩侵攻のとき、死んだ沖縄王府の人間は、たったの8人だった。
その8人の死の後、彼らは琉球を薩摩に売ったのだ。

ラベル:

二重スパイ


長く気になっていた映画だが、今回はじめてしっかりとこの映画を見た。
「二重スパイ」 原作ク・ボナン 監督キム・ヒュンジョン 主演 ハン・ソッキュ

二度ほど中途半端に見ていたが、今度は最後まできっちりと見た。
相変わらず、ラストの「イム・ビョンホ」と呼びかけられて主人公の振り返るシーンは切ない。

人は、何かを信じて生きていく。
何を信じて生きていくのかはそれぞれの自由だが、この映画では、その信じるものが国家ということになっている。
その国家変の信奉の強さが随所の拷問シーンに現れる。
人によっては、おそろしいほどの信奉だ。

国家と個人の問題は、たやすい謎解きではないが、その一端をこの映画は確かに教えてくれる。

そして、イム・ビョンホが国家への信頼を裏切りユン・スミをとるとき、正確には、ユン・スミの自分への信頼をとるとき、信じるものが何であってもそれは自由だという主張が見られる。

しかし、残念ながらそれは国家からは許されぬ選択で、同じ状況はわれわれ日本でも起こっている。

国家を裏切った国民に対する陵辱は、程度の差はあれ無慈悲だ。

そういうことを思わせる映画であり、映画としてもその文法を守りながらよくできあがったものだと思う。

心ある人に一度見てもらいたい。

ラベル:

ソフトボール


オリンピックのソフトボール決勝を見た。
いいものだった。
これから以降は、またややこしく書くが、金メダルをすごいではなく、上野の三連投がすごいではなく、もちろんそれらも十分すごかったのだが、解説の宇津木妙子がよかった。

長く何事かを願い、それを手に入れた人間を余すところなく映像的に表していた。
「何事を長く願う」ということが美しい。
その「何事」は、何であってもいいのだ。
ある人が長く何事かを思い、たとえ、それが復讐でも、小さな山小屋作りでも、ひとつの絵を手に入れることでもほんとうに何でもいいのだが、「何事かを長く願う」ことの試練は想像を絶する。

そして宇津木のその長さとその練習とそのあいだの負け続けた試合での苦難は計り知れない。
テレビの画面から声の出ない宇津木妙子を目の当たりにして、人が生きている姿を久しぶりに見ることになった。

見られて感謝の映像であった。特に彼女の思いは長すぎた思いだったし。

そのころには、惨めなわたしは、白湯を食べられるようになっていたが、「何事かを長く願うこと」など思いもよらなかった。

ラベル:

途中ともいえない途中経過

酒からは逃げ出したいのだが、初期設定?(最初への一杯に対する抵抗力)がまことに弱く、それが過ぎれば延々と酒は続いていくのである。
その続き方が尋常でないので、主治医は心配するし、わけのわからぬ知人は、好意で「気をつけてないといけない」と注意するし、数少ないわたしを思ってくれる人はわたしの体を心配してくれる。

それにしても止めなければならないわたしがこうも繰り返し繰り返し、酒に対する同じ愚をすることへの対抗は、「シアナマイド」、あるいは「ドットピン」という抗酒剤も使いながらの調整も考えなければならないだろう。
しかし、そんな生き方で、生きているといえるのだろうか、そういう疑問が残る。

今回の酒もそれほどでもないと思っていた酒だが、結局はたまに水を飲むだけで、一日を寝込んでしまい、それが治まるころには強烈な鬱が襲ってきた。
それに対し、徐徐に体に栄養を入れ、(最初はサプリメントだが、それから水溶物、おかゆへと移っていく)耐え忍びながら、抗鬱剤「セルシン」「レキソタン」を放り込んでいく。
その抗鬱剤を拒否して抗鬱のために酒を飲み始めれば、見事なアルコール依存症になる。

だから、わたしの場合、この酒飲後の苦しい状態を酒を飲む以外で乗り越えれば、ばら色の現実が待っており、あとは、なんにしろ「最初の一杯」を避け続ければいいだけの話なのであるが、構造がわかっているだけましだが、この一連の連関はおぞましい。

この連関を熟知している人間は、わたしの周りにはいない。
したがって、つまらぬコメントがあちこち飛び込む。
そういう時、自分の持つ人材のなさを思う。

そして、それをこのようなブログに書くとき、そんなものは読みたくはないという御仁がいるが、それは、健全という不健全を生きている人間で、わたしもまた、その人を必要としない。
いつまでたっても平行線だからだ。(その人は、自分の正しさを思うだろうが、これは単なる意見の違いに過ぎない。正しさを思う人間にろくな者はいはしない、イノチガケでもない限り…)

というわけで、わたしは、こういう露悪的で正確な文章を書くことをひとつの自分への助けとして、ここに真摯に書いているのであって、そういう文章を自分の頭で違うと思えば、読まないにこしたことはない。

これは、あくまでもわたしの書く私自身に対する認識とその認識の方向から見た事実なのです。

それよりも庭の草むしりをすればいいと思えば、そうすればいいし、酒場で自分の礼儀を大事に思えばそうすればいい。
要は、人はいろいろであるし、生きていく覚悟もいろいろだし、死んでいく覚悟もいろいろだということだ。

大事なことをそれを押し付けないことだ。
押し付けようとする人は相手にしないことだ。
両者の対話がそこにないならば、押し付ける側には権力の腐臭がする。
それは、体臭という形をとったり、口臭という形を取ったりするが、いずれにしてもくさい、ものだ。

といかくそんな目にあいながら、しんどい心身の中で、わたしは三つのものを見た。

ラベル:

2008年8月19日火曜日

この娘


いつからそんな風になったのかも知らないが、わたしは、気が強くて、わがままな女が好きだ。
というわけで、高飛び込みのこの女はわたしの一番の贔屓だ。

困ったものだ。

今回は、それだけの告白で、それ以上のものはない。
彼女にそれ以上のものもないだろう。

しかし、そういう女が好きなのは事実だし、それで道を踏み違えたこともある。

踏み違える価値のある女もいるかもしれないが、わたしにはその経験はない。

ちなみに写真のきれいな女、郭晶晶という。
まことにもって、きれいで、道を踏みはずしたいものだ。

しかし、この娘、だます男はすでに決めている。
だまされて納得できる男であってほしい。

ラベル:

見る角度

地球温暖化が、取りざたされてから原子力発電の見直しがされている。
見直しといっても、その危険性ではなく、CO2を生み出さないポイントにおいてだ。

79年のスリーマイル。
86年のチェルノブイリ。

そんなものは、遠いはるか。
あの洞爺湖サミットでも原子力の必要性は強調された。
このあほな人類という生き物は、いつも能天気だ。

少し前にアメリカでは、「原子力2010」というプログラムが発表された。
この地球の中で最も醜い国。

そして、(予期せぬ効果として)期せずしてNPTでは、核の平和利用にも茶々を入れて、原発の開発を規制している。
エネルギーは、今いる人口の下、必要なものだ。
しかし、その人口自体が不自然だとすれば、人が死ぬ道も考えねばならないのではないか。

わたしは、原発事故では死にたくない。
できれば、刃傷沙汰で、死にたいものだ。

いまこの地球を覆う人間は多すぎる。
その人間を認めての議論はどこか危うい。

さて、どうする。

そういう意識を持った人間がどれくらいいるのだろうか。

ラベル:

2008年8月18日月曜日

酒を飲む夜

http://jp.youtube.com/watch?v=J1fn4BASJF8&feature=related

酒を飲む夜には、たとえば、こんな風な唄を聞く。
わたしはもう十分に生きたし、かわいい女にも会った。
もうこれ以上、生きる意思はない。
できれば静かに眠りたい。

にしてもだ。
こういう歌を聞くと、「夢ひとつ」の思いが静かに浮上する。
「ちあきなおみ」の最後の「つ」が、あまりにも美しいではないか。

ああ、あまりにも情緒的になっているわたし、どこへ行くのだろうか?

ラベル:

2008年8月17日日曜日

思い

どこかともわからぬ東アジアの、あの町からわたしの愛した女が、24日に帰ってくる。
くだらぬことだが、わたしの託した夢だ。

あの女が去ってから、二週間が経つ。
それが、こんななに重い時間となるとは想像もしなかった。

ほれるということが、時間に重みを持たせるのは確かだ。

そして、もういちど出会ったときに、時間をなくしてしまうのも確かなことだ。

いくら暑くても、クーラーひとつかけず暑さの中で身悶えているのは、お前のためだ。
ふかくいえば、お前を思う俺の身が悶えているのだ。

あの、東南アジアの、あの町も、暑かろうに、おまえはフォーでもすすっているのだろうか。
オレは、お前のくれたニョクマムをたらして焼きそばを作っている。

お前を待っている意識を少しでもすすぎながら。

ラベル:

2008年8月16日土曜日

オリンピック

こうどこでもかしこでもオリンピックの放送をやっていれば否応なくその情報は目に入ってくるし、こちらとしても見たい競技や人がまったくいないわけではない。

なかでも女子100m走の福島千里はいい娘だと思う。
さっき、映像でも見たが、インタビューが切なかった。
ああいう受け答えには人の心根が出る。
間違いなくいい娘だと思う。

幸せに生きていってもらいたい。

そういえば、キャスターの中で元テニス選手の精神論の好きな男がいるが、彼の精神論とスポーツはかけ離れている。

イチローがまず道具を大事にしなさい、という。
グローブをスパイクをバットを。
いま精神論があるとすれば、そういうところにあるのだろう。
目を吊り上げて、根性を入れろというところには、スポーツとの何のつながりもない。
それでは、日露戦争の第三軍参謀長伊地知幸介と変わるところはない。

その元テニス男が、水泳のフェルプス選手を評して、彼くらいになれば選手村ではなくて、別にホテルを借りて体調を管理するものだ、しかしフェルプスは選手村でみなと同じように生活している。

あれが本物の姿だとしゃべっていた。

言っていることがてんでんばらばらだ。

かれは、伊地知幸介がどれだけの日本兵に無意味な死を(戦争下における)与えたか知っているのだろうか。

とにかく、
福島千里さんには、愉快に生きてほしい。(たまに愉快な時間が訪れることを願っております)

ラベル:

立川談志


「MXテレビ」で久しぶりに談志の落語を見た。

声が枯れていて、大変そうではあったが、できは家元自身も納得のできる「やかん」であった。
こういう「やかん」を聞くとほかの「やかん」は聞けなくなる。

工夫の具合が違うし、噺に入れる材料の仕入れの具合が違う。
それをもってどう料理するかの具合も違う。

あの男は露悪趣味だからいろいろと解釈されるが、演芸に対する真摯さは人後に落ちない。
なるほどという芸も持ち合わせているし、他の芸人に対する批評眼の確かさもある。(確かに好みの入りすぎている場合もあるが)

それに何より、聞き手にこびない。
聞き手にこびないから芸の質は下がらない。
こびずに良くぞここまでやってきたと思う。

談志がときに自分の客を自慢するのは、こういう自分についてきてくれた人々への感謝の念の複雑な表現であろうと思う。

おそらくは、早々長くはない談志、もう一度生できいてみたい気がする。

ラベル:

2008年8月15日金曜日

デスノート


「You tube」で「デスノート アニメみたいな版」を見始めたから、止まらなくなって、ついつい最後のほうまで見てしまった。
こういうことは、漫画や小説ではよくあって、わたしは止まらなくなるのです。

しかし、長いものの場合、たいていは、尻すぼみになり、ああ、これは編集者が連載誌が売れるものだから無理やり延ばしているな、とわかってしまう。

代表的なのは、「ドラゴンボール」で、終わるはずだったものを延ばすために「宇宙」や「天上」や「未来」へと話を広げていった。
それでも鳥山さんだから面白おかしく描いてはいたが、「まあな」というものであるのは仕方がない。

「デスノート」もそうであって、「L」との対決で「キラ」がとても大きなストーリーのトリックを使うところにひどく感心したが、「L」亡き後の話は、必要ないものだった。

いやいや作者が悪いといっているのではない。
ああ、この作品もずいぶんヒットして、そういう運命になったのだろうと思っただけのことである。

つまらなくなったとはいえ、わたしは「You tube」で見られるところまではすべて見てしまうのだろう。
そういう義理はあるし、それほど楽しいものが別にあるわけではないから。

みなさんも「デスノート」は、とにかく「You tube」は楽しいから、覘いてみるといい。
演芸なんかもいのがあるし、インタビューでなるほどと思うものも多い。

三島と東大全学連の対話なんて、面白かったな。

ラベル:

2008年8月14日木曜日

半額おじさん敗れる!!

わたしの近くにあるスーパーの中では圧倒的に良質な商品を扱っている店があって、ここの半額製品もまた圧倒的に良質であり、わたしの狩猟場でもあった。

しかし、今日、とてもショックなことがあった。
ひとつは、半額となった「スイカ」、ひとつは、半額となった「メロン」、ひとつは、半額となった「パウンドケーキ」、ひとつは、半額となった「豚もも肉」、これらを一瞬のスキにそれぞれ違うおばちゃんたちに取られたのだ。

これまで、決してこの店に現れることのない種類のおばさんたちだった。
わたしの脳に激震が走った。

ここまで、状況は進行し、王者として君臨していた半額おじさんの地位を追いやろうとしているのか。

これは、はや、弱者同士の戦いの始まりではないか。

はてさて、半額おじさんはどうすべきか?

リベンジしたいが、それではあまりにも美しくないではないか。
「必要とする半額の良質品を必要なときに手に入れる」という美学もなしに争うことはできない。

いまのところは、半額おじさん敗れたりの事実が残るだけだ。

もっともこれはオリンピックではないので、テレビ放映されることはない。
そこが、痛し痒しでもある。

ラベル:

続・日本人の劣化

「包摂型社会」から「排除型社会」への転換を論じたのはジャック・ヤングに詳しいが、この「排除型社会」というのがなかなかに厳しい社会で、「寛容の劣化」をもたらしたのも基本的にはこの「排除型社会」のありようである。

「自己責任」などは象徴的なことばで、他者(多くは弱者なのだが)を排斥するのにまことに都合がよい。
細かい議論は避けて、先を急げば、この「排除型社会」のありようはわれわれ個人のなかにも侵食してきている。
つまり個人的な内部に「寛容の劣化」をもたらしている。

そのように(一切許すことなく)子供にあたりはしなかったか。
そのように親しい人にあたりはしなかったか。
そのように誰かにあたりはしなかった。

もともと人間は間違うようにできていて、その間違いから立ち直る(戻ってくる)弾力性を有していたのだが、この弾力性は社会の(つまりは、あなたの)「寛容」を助けとする。

間違ってもいいのだ。
問題は、その間違いから立ち直るときに手を差し伸べてくれる誰かが、社会があるかどうかだ。

「寛容の劣化」は、そのまま他者の排除を意味し、あなたの周りから仲間をなくしてしまう。
なくした仲間は、下層に流れ透明な見えない存在となり、あなたの周りは、下層に流れることを拒否した、この世の流れに準じ、「排除型社会」を無批判に謳歌する人々で満たされる。

あなたがそういう中に入ってはほしくないとは思うが、止めることはできない。

人は人非人になる権利も持っている。

ラベル:

日本人の劣化


少し前の本だが、「なぜ日本人は劣化したか」という本があって、現在われわれの目の当たりにすることが、しっかりと書かれている。
「病識」という言葉を知るだけでも、ざっと目を通す価値のある本だろう。

この本の最初は衝撃的だ。
以前800字が週刊誌のひとつの記事の目安だったが、いまは200字だという。
要は、今年の春はこれがはやりだとか、最近こんなことが起こっているだとか、北島康介はすごいだとか、それだけを読者はほしがり、その背景や理由を必要とせず、背景や理由を書き込めば「かったるいね、この記事」という具合になるという。

ほしいのは、標語なのだというわけで、小泉何某の政治家としての成功の秘訣がよくわかる。

しかし、いまだに背景や理由こそが重要だと思っているわたしには眩暈がするような話で、今後この国で生きていけるのだろうかと思う。

確かに飲み屋の会話でも、それ以上立ちこんだ話を聞こうとする人間は少ない。

なるほど、標語がほしいだけだったのか。

ならば劣化といってもいいか。

これまた、少し前になるが「イニシエーション・ラブ」という小説がちょいとヒットした。
確かにあの小説の中でも「通過儀礼としての恋愛」の持つ意味は深く掘り下げられなかった。

あれが、現代だとしたら、わたしにはこの時代があまりにも遠いところにあるような気がする。

ラベル:

2008年8月13日水曜日

冷房か汗か

夏の夜、熱帯夜の厳しさに冷房を使うと翌日の朝は、しばらくは、起き上がれない。
それから、ゆっくりと冷房を切り、活動を始めると徐徐に体調は戻り、汗の中で体力を戻す。

「冷房より汗」

そういうことを思う。
うちの隣の老夫婦の家も独居となった老婦人の家も昔から冷房をしない。

冷房など、なくても生きていけるのではないか。

もちろん熱中症という問題もあるだろうが、熱中症によって、何人かが死んでもそれは受け入れるべきことではないか。
朝の冷房によるだるさを感じるとき、間違った方向に流されている自分を感じる。

明日、久しぶりに心療内科に行く。

一人で生きることを考える。

楽しみは、現実を離れたテレビの中にはない。
わたしが、わたしの力でどこにあるか、訪ね歩く。

ラベル:

切れた鎖


田中慎弥の「切れた鎖」などを読んでいると唖然としてしまうところがある。
この人は、わたしが見えないものが見えているのだと悟らされる。

教えてくれるのであれば、少なからず、作者の目の一部を共有できた安心感があるのだが、「切れた鎖」くらいになると、見えていないものが何ものかがわからない。
多かれ少なかれ書くという行為には、そういった造形作業(見えていないものを形にしていく)が入ってくるのだが、こういった真剣な作品に出会うと、いい加減にものを見てきている自分に改めて気づく。

だからといって、何でもかんでも見えればいいものではなく、見えないほうがずっといいことはいくらでもある。

ただし、書き手にとって、ものが見えないのは致命傷だ。
逆に、見えてしまうことも致命傷になる。(書き手ではなく、生きていく人間としての)
川端などはその好例だろう。

晩年の荷風にも似たようなところがあって、(もちろん眺めていたものは別様であったに違いないが)荷風の晩年は外食が多く、特定の店にこだわっていた。
特に浅草のレストラン「アリゾナ」にはよく通い、窓際の席でビールとビーフシチューを注文するのがお決まりで、トマトケチャップがお気に入りであった。
席がふさがっていると、他の席が空いていても「今日は席がありません」と言ってさっさと帰ってしまう一種の奇人であった。
店の者は、それに気を使い、新聞紙を席に置いて彼のために確保していた。
また、自宅から程近い京成八幡駅前の料理屋「大黒家」には、死の前日まで通い、熱燗一本にカツ丼を必ず注文していた。

最期は侘び住まいののちの孤独死であって、腹をおさえたまま絶命している写真が存在する。
まあ、一種の野垂れ死にだ。

多額の遺産(2005年現在の貨幣価値で3億円以上)を残していたことでも話題を呼んだが、彼にとっては、どれほどの価値もなかったのだろう。

見るものは見た、それ以上何を望む、そんな感情だったのだろうか。

ラベル:

2008年8月12日火曜日

土曜日には寄席に行く






以前書いたように昼席のトリが、小三治なので満員覚悟で、開場12時のところ11時10分前には着いたのだが、それでもずらりと並んでいる。
暇だねえ、と思ったが、お前も一緒じゃないかとすぐに頭の中の誰かが言う。
もともと池袋の寄席は100人程度しか入らないから、こういう状態にはなる。
特に小三治の時には。

他の寄席でもそうだから、根強いフアンが彼にはついているというわけだ。
まあ、小三治の話は、寄席で聞くに限る。
なんともまあ、ほんわかとした気分になる。
たとえば、談志と比較してみれば、そこに粋がりがない。

「まあ、いいじゃないですか」

という空気が満ち満ちている。

それであって、話に興が乗ってくると見事な落語に変貌していく。
あれは、楽しい。
前回の「野ざらし」も楽しかったが、今回の「死神」も十分に満喫した。

客の入れ替えなしの、最後までと思ったが、さん喬師匠の話の終わった19時過ぎに寄席を後にした。
五街道雲助師匠には大変な不義理をした。(体力がないのだよ、体力が、もうぼろぼろ)

しかし、寄席もいい芸人が増えました。
小里ん、小さん(もうこの息子さんも還暦を過ぎたそうだ。「ちりとてちん」いい芸でございました。)、入船亭船橋(これくらいの人になると出てきてくれるだけでうれしい。「親はナスでも子は育つ」なんていう落ちは、語呂合わせのようなものだが、十分話しに広がりを持たせたところが、いいじゃないですか、蛍は黙って光っているところが立派だ、なんていうのはさすが俳句、川柳のお師匠さん、うならせられました)

それから、(知らない人はごめんね)権太楼が、すごいことになっている。
「短命」をやったのだが、枝雀を髣髴させるね。
いま、笑いたいなら権太楼を聞くのがいい、話もいろいろあるが、おかしいのは権太楼に尽きる。

もちろんそういう方向ではなく、粋な人はいるよ。
なんと行っても柳亭市馬、柳家さん喬、この二人の演ずる姿は美しい。
お聞きなさいな舞台で、たまりません。

そしてここまで、わたしが書いてきた縁者たちはすべて寄席に出ています。
ある日ふらりと出て行かれることを望みます。

わたしもずいぶん楽しみました。

ほかに紙切りの名人、林家正楽、マギー隆司(マギー一門の総領弟子)、曲独楽の三増紋之助、漫才のにゃん子、金魚…、あっ、白酒もいいねえ。
しみじみ思いますよ。

芸人さんは、一人でやる仕事だ、甘えごとは許されない。
自分で工夫して自分で演じる。
その結果も自分で受ける。

そうでなくちゃあね。
あんたにそんな覚悟があるのかい?

寄席を出たとき、わたしは小さく一人ごちました。

ラベル:

2008年8月10日日曜日

温泉

温泉を知悉している友人から電話があった。
わたしは、この人から享受を受けなければ、ひとつの温泉も楽しめなかっただろう。
そういう出会いがある。

先ほど電話をかけた友人と思っていた男は、風呂に入っているという理由だけで気軽に電話を切った。
わたしは、彼を二度と友人と呼ばないと思う。

こういうささやかな場所に信頼はある。

信頼を欲するならば、そのことは熟知しておいたほうがいい。

人は生きていく。

得意のときも失意のときも同じように接したいものだ。

このくそ暑い夏の夜に、わたしは、しみじみそう思う。

ラベル:

2008年8月9日土曜日

原油についての簡単なまとめ

石油メジャー軒並み最高益 原油高騰で4-6月期
 【ニューヨーク31日共同】米エクソンモービル、英・オランダのロイヤル・ダッチ・シェル、英BPの国際石油資本(メジャー)3社が31日までに発表した2008年4-6月期決算は、記録的な原油の値上がりを背景に売上高が前年同期比で40-55%急増し、四半期ベースで軒並み過去最高益を更新した。特にエクソンは米国の企業史上の最高益を記録した。

 各社の純利益は、エクソンが前年同期比14%増の116億8000万ドル(約1兆2600億円)、シェルが33%増の115億5600万ドル、BPは28%増の94億6500万ドルといずれも2けた以上の伸びとなった。

 6月に1バレル=140ドルに達し、最高値を連日更新した原油の値上がりが生産部門の業績を押し上げた。



以上のような記事に見られるように、原油高は誰もが苦しんでいる構図とはなっていない。
産油国と石油メジャー、それにそこへ資金を投入し参加している投資家(この中には日本企業の参加もある)たちは、この世の春と踊り狂っている、その連中と日本の政治家の結びつきもある。

「金は天下の回りものと言うがその回り道は決まっている」と言われるゆえんである。

ところで、石油に代表される化石燃料のピークは過ぎたと言われている。(産油国であったインドネシアは準輸入国となってしまっている。この国の石油がどのように枯渇していくのか、調べてみると日本国の無節操さが見えてくる)
つまり、今後は減る一方で、1バレル1000ドルもまんざらうそでもなかろうと言われている。

しかし、これは今回の原油高とは別の要素で分けて考えなければならない。
供給量が減り上がる要素を持っていた原油をメジャーを象徴する投資家が跋扈していいようにしたと考えればいい。
そしてそのおこぼれに預かった日本企業と日本の政治家はつながっていると考えればいい。
それが大々的に報道されないこの原油高の真相だ。

そして、さらに大きな問題は、原油がなくなることを知っていながら日本はその対応に真剣ではないと言うことだ。
端的に言えば、化石燃料と原子力を補える最も期待されるエネルギーは太陽光エネルギーで、これは再生産可能エネルギーであり、化石燃料と原子力を加えた1万倍もの量を持つと言われる。
この太陽光エネルギーの開発のトップを走っていたのは、日本であったが、2004年にその開発を打ち切り、いまやドイツをはじめ中国、スペインに遠く遅れをとっている。

それは、日本の電力会社との思惑と大きくかかわっているのだろうが、これもまた大きく報道されることはない。

二つのことを主張しておきたい。

原油高で政府の中枢部の人間(ある日本企業とつるんだ)は甘い汁を吸っていることと今後最も重要になると思われる自然エネルギーに対する政府の対し方は無為無策、目前の利権のため、何もやろうとはしない、それどころか足を引っ張っている。

自然エネルギーに対して力を入れているのは、この国の地方である。

日本にはすばらしい地方があり、そこにこそ今後の可能性があると考えられる。

このことは、真剣に考えることが必要だ。
都会から離れること、地方で生きることが、より現実的にわれわれの手に情報としてもたらされることを強く望む次第である。
もちろん、われわれ自身の意識と努力はいうまでもないことだ。

願わくば、ともに生き抜いていくことを夢見たい。

ラベル:

2008年8月8日金曜日

すでに始まっている

帝国データバンクによると、7月の全国企業倒産件数(負債総額1000万円以上、法的整理のみ)は前年同月比23.6%増の1131件で、2005年4月以降で最多となった。
負債総額は2倍の6402億3200万円。
建設、不動産業界で起きた連鎖倒産の影響が広がっているのが特徴だ。

これだけの倒産件数とは知らなかった。
特に、建設、不動産業界の連鎖倒産が目立ち、これからの他業種への波及が気になるところだ。

それに加えて、原油高の影響に右往左往している第一次産業の問題と食糧の値上がりの問題。

マスコミは、北京オリンピックにみなさんの視線を引き寄せてはいるが、北京オリンピックどころではない大きな問題がいくつも進行している。
それは、中国も同じで、華やかな開会式に隠された事情は、隠し切れないほどある。

これが現実というもので、いろいろとあるというだけのことだと言ってしまえばそれでいいではないか、と言えば言えるが、それでは困る側にわたしは属しているので、ここに書いている。

オリンピックで日本が金メダルをとっても漁業関係者の状況は変わらないことを思い、諸手をあげて喜ぶ気はしない。
かといって、それをわざわざうれしそうに見ている人のそばで耳打ちもできない。

地方が自活していく可能性、そしてその中にわたしたちも参加していける可能性、そんなことをお考えの人は、是非、メールでお教えください。

真剣に、わたしのこれからを地方に託そうと考えております。

ラベル:

落語娘


「落語娘」を見たと書いたが、「しゃべれどもしゃべれども」「寝ずの番」、一方、テレビの「タイガー&ドラゴン」、落語を扱った作品は、すべていっぱしの作品になっている。

今回の「落語娘」は、永田俊也の小説を中原俊監督が映画にしたものだが、津川雅彦がよかったし、ミムラというかわいい女の子もよかった。
よかったというのは、よく演じていたということで、落語を通した作品ではよく起こることだ。
最近では「ちろとてちん」でも有名だ。

私見では、それは落語をその作品の中で演じるとき、生半可な演じ方では落語が成り立たないという部分が大きいと思う。
今回は柳家喬太郎が落語監修をやっているのだが、いい出来の落語を映画の中で聞かせてもらった。
もちろんインサートシーンを入れていくという小細工は使わねばならないが、(それも必要ないといったら、これはもう立派な噺家だ)両手のひざの置き具合なんざ、あのミムラというかわいいお嬢ちゃん、よくできておりました。

しかし、落語という芸、こういう間接的な接触をもってしても侮れませんな。 

ラベル:

水産白書

2008年度の「水産白書」が出版されたが、燃油問題等の言及はともかく、魚離れの統計には多少ならず驚いた。
すでに始まっていたか、イカ、アジ、サバをはじめ、日本人が魚を食べなくなってきたという現象が。

この魚はすし屋や高級料亭の魚ではない。
生活食として家庭で食べられる魚の量が減っているのだ。

燃油の問題もさることながら、消費量の減少は決定的だ。

はや、水産業にとって致命的な時代に突入を始めたということだ。

「地産地消」に、なにか解決策がないのだろうか。
「地消」ならば、地方の活性化につながる。
多少高い魚であっても。

しかし、問題はさらにつめなければならないだろう。

大事なことはすでに水産物の消費が減少し始めてきている時代に突入したということだ。
このことは、思っているより大きなことだ。

最終的に、われわれは何を食べて生きていくのだろうか。

ラベル:

ストレートビュー

わたしもこのシステムを最近知ったのだが、といってもこのグーグルの新しいサービス『ストレートビュー』が開始されたのは、確か、今月の5日だから古い話ではない。

グーグルマップの新システムだが、自分の家が画面に現れるのを見ると、この時代の科学技術に空おそろしくなる。

あの人工衛星からの映像というのもとんでもない解像度なのだろう。

まさか市民生活をそこまで監視し始めていることはないだろうが、「1984」を思ってしまいそうになる。

ラベル:

2008年8月7日木曜日

友人と飲む

「落語娘」という映画を見た後、久しぶりに会った友人と飲む。
いろいろと店を探していたが、最後に奇跡的な店に遭遇する。
酒屋のやっている立ち飲み屋。
もちろん、キャッシュ・デリバリー方式だ。

昔はこの手の店があって、よく飲んだものだが、最近はトンと見ない。
飯田橋周辺にあったとは。

愉快な会話を彼としたが、話の内容は悲惨だった。

悪意の塊のような人間との闘争のアウトラインを聞く。
こういう話を聞くと小説やテレビドラマがあながちとっぴな空想でもないことに気づかされる。

もっとも、こちらもかなり厳しい状況下にあるのだが、厳しさの質が違うので、ただ大変だなあと思ってしまう。

何とかなるだろうとは、うかつには思えぬ話だった。

ラベル:

2008年8月6日水曜日

それでも少しずつ

今度は、テレビとJCOMがつながった。
テレビとビデオも一時的につながった。
三社がうまくつながるには、JCOMのサービス情報を受けねばならないのだろうがそれでもこうやって、機械とも少しずつは付き合ってはいける。

いらだってはいけないなと思う。

今日は久しぶりに悲しい友人と会って、映画を見ようかと思っている。

少しは元気なんだなと思う。

赤塚富士夫は逝った。

ラベル:

機械おんち

パチンコの景品でずいぶん前にもらい、ほったらかしにしていた電気かみそりが、急に使えるようになったので、欣喜雀躍。
その余勢を買って、JCOMとテレビとビデオの回線をいじったら、もうしっちゃかめっちゃか、何も見られなくなってしまった。
これじゃどうしようもないじゃないか。

「プリズンブレイク」も見られないし、あったまきた、もう何もかにも。

機械おんちもここまで来ると見ていられない。

自分のことながら。

ラベル:

多民族国家中国

中国の国家公安部が暴動、ストライキの統計を発表している。

2003年に58000件、04年は74000件。そして2005年はついに87000件。このペースだと2006年は軽く十万件を越えることになる。しかも、これらの数字は既報の通り、100人以下の規模のものを含めない。

と、少し古いが、統計の発表がある。
中国は民族国家であるのは、よく知られているが、他民族を抑えるのはかように難しい。
武力がその代表的な手段だが、その手段に危険性が大きくあるのはご存知のことだろう。

民族の結束は、それほどに強い。
韓国がすごい(竹島問題にしても)、中国(漢民族)がすごいというが、あれは民族だ。

日本に民族意識はあるか?

それを書くのは、もう少し、学んでからのあとの作業になるだろう。(小熊英二さんらを…、しかし、何も知らないなあ)

さて、話は戻り、中国は明らかに多民族国家で、それを漢民族が支配してきたに近い。(中国史上、漢民族以外の支配は二度しかない)
常に他民族は追いやられ、怨讐を抱く。
それは、中国政府がいかなる統治方法をとってきたかによるが、これに関しては報道管制も引かれており、軽々に論じてはなるまい。

ただ、予感しておかなければならないことは、ウィグルの問題は、ウィグルだけの問題ではなく、中国の抱えた民族問題の象徴で、武力統制の強化でオリンピックを乗り切ったとしても、その後は暗澹たるものだろうということだ。

中国の今後にみなさんが、注目されることを期待する。
それも多民族国家としての中国に。

ラベル:

土用の丑の日



昨日は二の丑ではあったが、スーパーでよさそうなうなぎが、490円で売っていたので、久々に食ってみるべえと買った。(台湾産、静岡育ち、一匹490円)

ご存知のように台湾産は、日本産と同じく「アンギラジャポニカ」という種類で、中国産のように「アンギラアンギラ」が混じることはない。
しかしながら、養殖方法が違うためにうなぎ自体に差は出てくる。
わたしの購入したのは、どういう意味か最終的には静岡で育てたとなっていた。
昨今のうるささに表示もここまでなったのか、

台湾産は2003年「スルファジミジン」、2005年「エンロフロキサシン」が、検出されて問題になったが、まあ、かまうものか。(これに入っているとも限らないし、すぐには死ぬまい)
一方、中国産は「ニトロフラン」「マラカイトグリーン」の発がん性物質が抽出されたことで有名である。

何、日本もそうほめられたものではないだろう。
うなぎの養殖現場に行ってみると、そのすさまじさに、こりゃあ、大量に抗生物質を放り込みたくもなるわと納得したりする。
まあ、一種の工場だな、あれは。

しかし、ものにはいろいろあって、養殖であっても一年半から二年もかける上物があり、こいつはさすがによくできたもので、天然ものよりわたしはこちらのほうが、好きなくらいだ。
天然物は、高いのは高いし、それに、しっかりとした川魚の味がして、うなぎを食べた感じが残らない。
もちろん、十分に上品な感じは残るが、多少ほしい邪悪さがすでにないのである。

さて、実は、このうなぎを食す前の段階があって、「スピガドーロ」というイタリアの缶詰会社のサンマルツァーノタイプの完熟トマトの缶詰が家にあったものだから、そいつと地鶏と夏野菜を混ぜて、極上のシチューを作っていたのであった。
このシチューを、たっぷりなかせて、昼に食べたものだから、ここでも体力が十分に戻っていた。
その午睡の後の買い物であったのだ。

食って、寝りゃあ、人は力が出る。
それにわたしの場合は、アルコールを抜けば無敵だ。

いやはや、昨日はよく食って、しかもうまかった。

ついでに書いておけば、我が家に三年程から隠し持っている「ぬか床」があり、それに浅漬けのきゅうりを用意しておいた。
このきゅうり、まことに鰻丼と相性があった。

夏場は浅漬け、それも工夫されたぬか床から出てくる、こういった夏野菜は何物にも変えがたい。

珍しく、食い物のことを書いてしまったぜ。
よほど、うまかったらしい、午睡ともども。

ラベル:

2008年8月5日火曜日

昨年度の食料自給率

昨年度の日本の国内食料自給率が、40%を超えたそうで、喜ばしい限りである。
国内エネルギー自給率4%のほうはどうなっているのだろうか。

遠い国アフリカの飢餓問題の特徴は、商品作物を作らせ、(コーヒーや綿花)それを売って外貨を稼ごうとしたところにある。
食料なんぞは、稼いだ外貨で買えばいいワイ。
自分ところで高い金を出して作るより、外国から安く買えばいい、といった発想であった。

これはまさしく日本の発想でもある。
食料なんぞ、エネルギーなんぞ、金を出せばいくらでも買えると思ってきた。

そして、そういう況は、幸せなことに長く続いてきたが、それは続いてきただけで、永遠ではない。
すでに、ロシア、中国などが一切の食料輸出もしないことはありえるという発言をし始めている。
これが、現代の国際的ゲームのルールだ。

いまや、世界は国際的な政治経済ゲームで動いている。
誰が正しいかなど、誰も第一義的な問題にはしない。
したがって、北朝鮮は悪いやつだから早く拉致被害者を返せ、などという主張は失笑ものである。
むしろ、蓮池さんらの一時帰国を逆手にとって、彼らを北朝鮮に戻さなかった汚点のほうが、このゲームにとっては大きい。(だって…、などと安倍あたりは言うだろうが、あれは何もわかってはいない、ただのお子様だ)

政治経済は、そのようにゲームとして進んでいくもので、このルールを知らぬものは置いてきぼりにされていくだけのことであり、まさに日本の政治家の多くがそれである。(政治家の仕事が、すばやくこのルールを理解し、その中でうまく立ち回るにはどうするのかを考えることなのに)

さて、そういうわけで、この国の政府に対して、あまり期待しなかったわたしだが、「地産地消」に代表される地方の動きが活発らしい。
そしてそのような小さなコミュニティにあっては経済は回っていく可能性がある。
経済が循環するならば、食料、エネルギーが循環するならば、人は生きていける。

一国は生きていけないかもしれないが、地方ならば生きていける可能性があるのだ。

わたしはそういう目で地方を見てこなかった。
「よそ者の目」だな。

これからのわたしたちは地方に「よそ者」として登場しないやり方を考えるべきだ。

このことは、すでに何人かによって始められている。

中央政府に何ができるかではない。
中央政府よ、官僚よ、地方の動きを邪魔するのではないのだ。

これを「中抜き」という。つまり、中央をすっ飛ばせて俺たちでやろうぜという動きが起こっている。
もちろん、これにもいろいろの策略はいるのだが、すでに始まっていることをここに自分の不明をわびるとともに表明しておきたい。

もし、気になっていただけるならば、金谷年展、飯田哲也などを少し追えばさらに見えてくるだろうと思う。

ラベル:

沢登秀信


「YOU TUBE」(http://jp.youtube.com/watch?v=4_Z4cW6C0AI)で、沢登君の歌を聞く。
久々の彼の歌はいいなあ、何より温かい。

「温かい」というのは大事だ。
それは、やさしさや、思いやりや、せつなさや…ひっくるめて成り立つものだから、だから、「温かさ」さえあれば、人は信頼できる。

ラベル:

書き手という人種

それが、プロであれ、素人であれ、(書いたものによって金を得られるかどうかというほどの差だが)書き手という人種にはその作品に愛情があるもので、編集者からアドバイスを受けることはあるが、勝手に作品にアカを入れられて喜ぶ人はいないだろうと思っていた。(もちろん、基本的な日本語のミスや用字用語の統一は別として)

詐欺罪に問われ、いったん会社をたたむようになった「新風舎」の仕事をやったことがあるが、大きな違和感を持った。
しかしながら、「新風舎」なる会社に染まった人間たちにはそれは常識で違和感を持つわたしが間抜けだと映ったことだろう。
このように間抜け具合は数が決定するところがあるので、数に向かって反抗するのはむなしいことがよくある(ガリレオの昔から)。

「新風舎」が、本を出版する場合、著者原稿を添削していくようにアカを入れていくのである。
通常そういう行為は著者との話し合いの上で進められるため、わたしは最小限のアカを入れていったのだが、「新風舎」にはそれがサボっているように、能力がないように見えたのだろう。
ずいぶんと批判された。

しかし、その文章がいかにわたしの眼鏡にかなわなくとも著者の文章は著者の文章であり、ましてや自費出版や共同出版する原稿にアカを入れていき、いい文章にしてやったなどと、よくぞ編集者が言えたものだ。

彼らが法的に詐欺罪に当たるのかどうかは別にして、本を作るということを知ってはいなかった。
自費出版なら、その人の文章でその人の本を作ってあげればいいではないか。
それならば、自費出版した満足感は残るだろう。(ずいぶん余計に金を取られても)

もし、文章を直してほしいならゴーストライターでも雇えばいい。

自費出版、共同出版を謳うあの業界、いまだにいくつか残っている「文芸社」などがその代表だが、ろくなもんじゃねえ。

自分は、自分の作品を書けばいいのだ。
その結果、どうなるかは自分が引き受けることになる。

それがいい本となれば、こんなに喜ばしいことはないが、だめはだめなりに力にはなる。

早々悪いことばかりが、この世に満ちているわけでもなかろうに。

ラベル:

危機と遊び


男の本当に熱中できるものは、危機と遊びだ、という風なことを開高健が書いたりしゃべったりしている。
また、旅のことを聞かれて「ここではないどこかへ行きたかった」というように答えている。

この二つの内容が、酒と重なるように読めるならば、あなたは十分な酒飲みであるし、ある夜、あなたと酒をともにしたくも思う。

先日の土曜日の飲み会は楽しかったが、毎度のごとく、酒はわたしを物理的にも精神的にも知らない場所まで連れて行ってしまう。
挙句の果ては、この体たらく。

この循環は一生変わらぬものなのだろうか。
だとしてら、わたしと酒の付き合いはずいぶん冷たいものになったものだ。

「リテラシー」という言葉がある。
酒場であるとか、飲む相手であるとか、酒一般に関するリテラシーをわたしがさらに高潔に溜め込んでいけば、わたしと酒の関係は変わるのだろうか。

酒との関係を思うとき、わたしのなかに、なにか、薄ら寒い風が吹く。

ラベル:

2008年8月4日月曜日

あの200勝


野球自体は、何の意味もないお遊びに過ぎないが、それに賭けて行う選手にはきらめきがある。
つまり、あまりにも繰り返し述べてきたことだが、人生は無駄に過ぎている時間にすぎず、その無駄の中に何かを光らせる人がいるに過ぎない。
無駄を無為に過ごしていくか、道端の小石を光らせる差である。

本日、中日の山本昌投手(42)が、ナゴヤドームで巨人相手に1失点完投し、今季7勝目を挙げた。
この7勝目は、彼の通算200勝にあたり、それは、日本野球界、史上24人目の快挙に当たる。

42歳11カ月での到達は、2004年の工藤(当時巨人)の41歳3カ月を抜いて史上最年長の記録となった。

山本昌は日大藤沢高(神奈川)からドラフト5位で1984年に中日に入団。
88年8月の広島戦でプロ初勝利。
93、94、97年の3度、最多勝のタイトルを獲得。
06年9月の阪神戦では、41歳1カ月の史上最年長でノーヒットノーランを成し遂げた。

今季はリーグ記録に並ぶ21年連続勝利と、史上26人目の通算3000投球回も達成しているが、まことにもって、たいしたものだと思う。

あえて重ねるが、人生は無意味なものだが、その無意味なものをこのように輝かせることはできる。

山本昌投手に対しては、本当によかったな、と思う。

ラベル:

一杯の酒は一杯の酒を呼び、その酒がつながれば、さらに一杯の酒を呼ぶ。
そのようにして、酒は酒と混じっていく。
それが、酒飲みの内部て生じていることだ。

酒が強いとか弱いとかは、赤ん坊の会話でわれわれとなれば、そのような会話はない。

ただただ飲むに過ぎない。

それが酒との向き合い方だ。

だからといって、酒は何ももたらしてはれないが、くれないが、それでも酔いという有り余る副産物をくれたりする。

「酒なくて、何の己が桜かな」

は、そんなところからいでましている。

ラベル:

2008年8月2日土曜日

羽生によれば

羽生善治氏は、「プロフェッショナルとは、いつも頭の片隅に自分がプロであるという意識をもっていることだろう」と語っているが、なるほどと思う。
逆から語れば、プロとしての生業をしているそのことが、常に頭から離れないのだろう。

哀しいような恐ろしいような話である。

話し相手を大事にする必要があるというわたしのコトバの裏には、そうでない人にまで気を使う必要はないということがある。
そこまでわれわれに奉仕する必要はないのだ。
むしろ、まわりを大事な人たちで固めることが必要なのだろう。

わたし個人の意見、私見ではあるが、人はそれぞれ自分に関してのプロフェッショナルのだから、四六時中、自分を大切にしているがいいと思う。
そうすれば、「大切にする」ということの感触がわかってくるし、誰も彼も大切にはできないこともわかってくる。

大事な人を大事にしていればいいだけのことである。

大事でない人を大事にする必要はないし、大事にする振りも必要はない。


というわけで、今宵は誰と出会うやら、そんなふうなことを、いま考えている。

ラベル:

話し相手

独居老人だけではなく、若者にあっても、この時代には孤独感(それが本当の孤独であるのかどうなのかは別として)が充満している。
あの携帯を使って絶えずメールで連絡を取り合う男の子や女の子にも孤独感の影を見ることがある。

会話を行うことで、ストレスが低下する傾向はしばしば指摘されることだが、これは自分のストレスの原因を吐露することで(自分がそうであろうと判断しているストレスの原因だが)、わだかまりを放出し、一方、自分がいかなるストレス状態にあるのかを説明するうちに、自身の内にあるもろもろの未整理の情報を整理していくことがときとしてあり、これによりストレスの原因を客観的に理解し(うまくいけばだが、うまくいったように感じることはままある)、ストレスの対処方法に到ることが容易になると考えられている。

また、このことを逆から眺めれば、対話することで相手の悩みを他人が共有するという美しい話にもなる。

ご存知のように、これはカウンセリングでも行われるている手法である。
この手法が、カウンセラーと対話することで、あるいはカウンセラーを交えながら同じ悩みを抱くもの同士の集団での会話で、ストレス軽減と問題の抑制を期待する療法である。

ただ裏腹なのは、会話が苦手な者や、望まない相手との会話を強いられた者にとっては、会話こそがストレスの主たる原因にもなることだ。
うつ病の場合でも、うつ病者への過度の働き掛けが逆に症状を悪化させるケースは多々見られる。

以上、会話についての「うだ話」だが、当人が会話を望んでいるかどうかにポイントがあるのはいうまでもない。

にしてもだ、会話が人にとって大きな要素であるのは間違いはなく、ここまで述べてきたところには、入れていないが、会話そのものに、なんらの意味もないコトバのやり取りに、生きている実感をつかませることがあるのは、あなたのよく知っているところである。
ある人の笑顔が、自分の心を溶かしていくことを感じた記憶をお持ちだろうと思うが、それこそが会話の真の効果だろうとわたしは思っている。

それが「関係性の確認」という作業と深いつながりがあるのは想像するに容易い。

このように、会話には、大きな力があり(実は信頼する相手そのものに力があるのだろうが)、もし、あなたもそう思ってくれるなら、気の合う話し相手は、こんな世の中だもの、死守しなければならない。

あなたの友を大切にしてほしい。

以上が、わたしのあなたへの切なるお願いです。

ラベル:

2008年8月1日金曜日

内閣改造


ここしばらく内閣改造の分析でマスコミは大賑わいだろうが、それは政治ごっこであって、われわれの生活に直接の影響を与えるものではないだろう。
問題は、「適正人口」と「分業」にあるとわたしは考えている。

この日本は、適正人口をはるかオーバーして成り立っており、その成り立ちはアダム・スミスの指摘した分業をはるかに複雑化した分業システムが支えている。
しかし、残念なことに、いまその分業体制が揺るぎ始めている。
その理由はいろいろとあるのだろうが、目に見えるものを使って端的にいえば原油高だ。

われわれの分業は恐ろしく細分化され「花屋」さんなるものも生み出した。
花を売って暮らしていけるのである。
それはそれですばらしいことだろう。

しかし、一歩退いて考えれば不思議なことである。
われわれの父母の時代に「花屋」なるものはそれほど多く存在はしなかったはずだ。
うちの父は花を育てるのが好きで、家の庭はいつも花が咲いていた。
それもほぼ決まっていて、チューリップ、グラジオラス、バラ、菊、シャクナゲ、クンシラン…といったところだった。
どれも見事な花で、うちの庭先や玄関を飾っていた。(今思えば、とてもやさしい人だったのだろうと思う)

そのころ、どこかに花屋があったということをわたしは記憶していない。

通常花は、華道(生花・盛り花)やフラワーアレンジメント教室用のため用意する。
ほかにイベント向けとして、開店祝いとして、葬儀、パーティー会場、結婚式の花として使われる(ブーケを作ったりもする)。

そういう生活は余裕の産物で、わたしの父母の若かりしあの時代それほどの結婚式も葬儀も頻繁にはなかった。
ましてや家庭や職場に花を飾ることはさらに少なかった。

花は一種の生活の中の贅沢だったのだ。

いま、日本の経済は知らないうちに拡大再生産できなくなってしまっている。
単純再生産はかろうじてできているのだろう。
もちろんどこかの企業にポイントを当てればさまざまな現象をそれぞれに話さなければならないが、全体ではそうなっている。

特に原油高になってからははっきりしていて、花などはハウス栽培をするものだから、とんでもない高値を呼び、花屋が仕入れられなくなっている。(あるときは、卸で通常の10倍の値がついたりしている)
しかも、花は、もともと生活の彩として始まったもので生活必需品ではない。

細分化された分業体制の中、生活にどうしても必要なもの以外は売れなくなる、必要とされなくなる。

まずもって「花屋」がそうだろう。

富裕層が顧客ではない「ちょっと高めのレストラン」も閑古鳥が鳴くだろう。
「飲み屋」もそうだろう。
魚も食べなくなり、肉や牛乳もいまほど必要とはされなくなるだろう。

この時代が貧困をあおり、「中流階級」がいなくなりつつあるならば、必ずそのように進行していく。

ガソリンスタンドがどれくらいつぶれているかご存知だろうか。
お寺が廃業していくスピードをご存知だろうか。
町の魚屋もかなり危なくなっている。
寿司屋だってそうだろう。

どうしても必要なものが何かわたしにはわからないが、たとえば主食となりうる米やパンや麺は残っていくだろう。
その中の最も安いものが。

適正人口をオーバーしていた日本は、それを支えた細分化された分業のもとに生きてきていた。
しかし、適正人口の多くが貧困へと流れていけば、細分化された職業のうち奢侈品を扱う人々は同じように貧困へと流れていく。

貧困は貧困を呼ぶ。

波及効果という。

間違いなく、われわれ貧困層が金を使わなくなるとき、切っていくのは生活の余分な部分、無駄な部分、そしてそれがあることでわれわれの心を和ませた部分からだろう。

その流れを止めるのは、どのような政府でも無理だろう。

わたしがたった一つの可能性として考えるのは、富裕層を切り崩し、彼らの富裕なるものを貧困層に向けてばら撒き、そしてある構想を持って日本を立て直すことを決意することだ。

しかし、歴史上そのようなことは起こらなかったし、起こったのは暴動であり、革命であった。

とにかく、どういう絵図が描かれていようともその絵図には、適正人口へ向かい、死んでいかざるをえない貧困層の存在があるはずだ。
十分な数の人間がいなくなれば、必要なだけの分業体制へと移り、経済はまた回り始める。

しかし、彼らが黙って死んでいくだろうか?
死んでいくかもしれないが、多くの犯罪が起こるかもしれない。
あるいは、そのエネルギーが戦争を欲するかもしれない。

マスコミでは「上げ潮派」とか「増税派」とかしゃべっている。

しかし問題はもっと単純だ。
この日本には(実は地球には)人が多すぎるのだ。
その人を支えた体制が壊れ、いままでの蓄積もすでに馬鹿役人どもが乱費していたとなれば、これは適正な人口に向かって人が死の行進を続けていく以外に方法はないではないか。(あるいはもっと過激な崩壊か?)

後期高齢者の問題が出たときにその底には何があったか?
あなたたちは適正人口に入っていないという宣言だった。

それはさすが政府も口には出せまい。

しかし、薄々彼らも感じている。
漁業は助けられても農業は無理だな、酪農は無理だな、…
個々の商店はどうだ?

すでに崩壊は始まっている。

「内閣改造!?」

いったい、あなたたちはこのような多すぎる人を抱え、その人たちが生きていけるシステムが崩壊しつつある国で何をしようと考えているのか。

はっきりといってしまえばいい。

この国はあまりにも多くの人間を抱えすぎた。
誰かが死んでいかなければ、もうこの国は平衡を保つことができないのだ。

ラベル:

ナイロビにて


若いころ、とわたしが言えば大昔のことになるが、ケニアのナイロビで星野芳樹という老人にかわいがられたことがあった。
彼からは、いろいろなことを教えられたし、今はそれらはわたしの中で血肉化している。
当時、彼のことを取り巻きの若い日本人たちは「ムゼー」と呼んでいた。
「ムゼー」というのはスワヒリ語による老人に対する敬称で、少しずれてしまうが日本語で言えば軽みを帯びた「長老」とでもなるだろうか。
わたしはもちろん彼に対して十分なる敬意を抱いていたが、どこか「ムゼー」というコトバの響きに違和感を覚え、「星野さん」と呼んでいた。
(その違和感は今でも続き、先生や師匠と呼ぶことがどうして敬意の表明になるのかがわからない。
だから、以前このブログで取り上げたが、自分に対して「ありがとう」とは何か、「ありがとうございました」と言えといった老人をはっきりと軽蔑し続けている。
くだらん生き方をしてきやがってと。

まあ、そういう人間は多々いるのでことさら彼だけをどうのこうのいう気はないが、星野芳樹はそういう連中とは明らかに一線を画し、毅然とした酒飲みであったし、スケベであった。
いまでも、ナイロビ郊外のあるバーで、「山本クン、あの娘は今夜が始めての娘だ、あいつをくどくといい」とささやいた声を覚えている。

あの声はとても優しく、その若くて純情そうな美しき女は商売女のデビューだったが、そのことに対する何らの評価もなく、ただいい女であるということをわたしに教えてくれていた。

それ以降、わたしがその女がどのような素性であれ、いい女はいい女だと思えるようになったし(そしてそのことは同時に多くの過ちをわたしに冒させたが)、多くの会うはずのないいい女と出会わせてもくれた。

それは、現在言うところとのセレブとはかけ離れていることはいうまでもなく、セレブの要素が彼女の内部で勝っている女の醜さは、腐臭とともにいまのわたしにわかるのは、すべて、あの夜の星野さんのささやき声によってである)

ところで、そのナイロビのころ、ある日本人の家庭に寄宿していたことがある。
そのときわたしを世話してくれた夫妻の妻であった人が写真の中央の人である。

彼女は、もう誰かが書いているのだろうか、考えられぬような紆余曲折を経て今ナイロビの市街地に「マトマイニ・チルドレンズホーム」を運営をしている。
ナイロビからクルマで30分くらい、オンガタロンガイ村に建つ「マトマイニ・チルドレンズホーム」には約20人ほどの孤児が彼女とともに生活している。
彼女が孤児とかかわり始めて約26年経つ。

人の生きることに意味はない。
意味づけるのはあなた自身の作業によることだし、誰かにそれを委ねてもいいし、なにものかの奴隷になり面白おかしいように幻想のなかで生かせてもらってもいい(反吐が出そうだが)、もちろん何も意味付けなくてもいい、それがわたしの人の生に対する見方だ。

人は、己が生と戯れ、そして死んでいく(自死も含め)、それだけのことだ。

しかし、これはその秘に属することのひとつだが、だからこそ「イノチガケ」であることに常に意味が生じてくる。

「人生とはイノチをかけた遊び」
「あちらこちら命がけ」

ともに安吾のコトバですが、人は愉快に生きるのが一番で、そのために死をあまりにも美化し、恐れてはならないというような含意でしょう。

愉快であるためには「イノチガケ」の要素が多少なりとも混じっているものだと、文章で書くわたしの軽率さを許してください。

彼女、菊本照子の元から巣立った孤児の数は多い、そして彼らは、彼女のことを「マゼイ」と呼ぶ。
「マゼイ」とはスワヒリ語で母のことだが、というよりは「母ちゃん」としたほうがいいだろう、まことにもって呼称とその思いが一致したコトバではないか、ケニアの空の下、還暦を過ぎた彼女は、いまも「イノチガケ」で自分の人生と戯れている。
そしてそのことがたくまずして、ケニアの孤児たちとのつながりを産み、ともに戯れ愉快に、自分を、人生を謳歌している。

こういう人の生き方を見ると、頭が下がるばかりである。

「マトマイニ・チルドレンズホーム」の「マトマイニ」とは希望という意味である。

恐れるな。そして僕から離れるな。

そう、思うときがある。

友よ。

ラベル:

体調さらに戻る

さらに酒を飲まぬ日を一日重ねる。

昨日は結局、2時間弱の睡眠のまま夜を迎えたが、さらに眠れず、明日は小三治師匠を聞きに行けるかとの甘い期待に睡眠剤をとうとう午前一時過ぎに嚥下したが、今朝まだ眠さを十分に身体に引きずりながら、起き上がってみたら、12時をとうに過ぎていた。

わたしは、10時間以上昏々と眠っていたのであった。(ただ、いまだわたしはわたしであり、何の変身もなされていなかったのだが…)

皆様もご存知のように眠ることにも十分に体力が必要で、わたしの具体例を出すまでもなく、体調によって、その長さは影響される。
これだけ長期の睡眠が取れるのは、明らかな体調の復活。
小三治を聞かれなかった悔いが残る以外は(大きすぎる悔いだが)、気分は悪くない。
これもまた精神の復活を物語るもので、低調な精神を抱えたときは、睡眠は何よりの頼りだった。
いまや起きている時間が恐ろしくなくなってきている。

しばらくすれば、体の確認のために、今日は長い散歩に出ようかと思っている。

それにしても、明日の塩見鮮一郎氏らの飲み会に出たものかどうか。
仕事の話でも転がっているのなら、出かけてみてもいいのだが、ただ飲むだけに飲むような酒は、いまのわたしにとっては、嫌悪するばかりなのです。

わたしは、ただ飲むだけに酒を飲むことをやめているのです。(おっさん、かっこええな)

ラベル: