途中ともいえない途中経過
酒からは逃げ出したいのだが、初期設定?(最初への一杯に対する抵抗力)がまことに弱く、それが過ぎれば延々と酒は続いていくのである。
その続き方が尋常でないので、主治医は心配するし、わけのわからぬ知人は、好意で「気をつけてないといけない」と注意するし、数少ないわたしを思ってくれる人はわたしの体を心配してくれる。
それにしても止めなければならないわたしがこうも繰り返し繰り返し、酒に対する同じ愚をすることへの対抗は、「シアナマイド」、あるいは「ドットピン」という抗酒剤も使いながらの調整も考えなければならないだろう。
しかし、そんな生き方で、生きているといえるのだろうか、そういう疑問が残る。
今回の酒もそれほどでもないと思っていた酒だが、結局はたまに水を飲むだけで、一日を寝込んでしまい、それが治まるころには強烈な鬱が襲ってきた。
それに対し、徐徐に体に栄養を入れ、(最初はサプリメントだが、それから水溶物、おかゆへと移っていく)耐え忍びながら、抗鬱剤「セルシン」「レキソタン」を放り込んでいく。
その抗鬱剤を拒否して抗鬱のために酒を飲み始めれば、見事なアルコール依存症になる。
だから、わたしの場合、この酒飲後の苦しい状態を酒を飲む以外で乗り越えれば、ばら色の現実が待っており、あとは、なんにしろ「最初の一杯」を避け続ければいいだけの話なのであるが、構造がわかっているだけましだが、この一連の連関はおぞましい。
この連関を熟知している人間は、わたしの周りにはいない。
したがって、つまらぬコメントがあちこち飛び込む。
そういう時、自分の持つ人材のなさを思う。
そして、それをこのようなブログに書くとき、そんなものは読みたくはないという御仁がいるが、それは、健全という不健全を生きている人間で、わたしもまた、その人を必要としない。
いつまでたっても平行線だからだ。(その人は、自分の正しさを思うだろうが、これは単なる意見の違いに過ぎない。正しさを思う人間にろくな者はいはしない、イノチガケでもない限り…)
というわけで、わたしは、こういう露悪的で正確な文章を書くことをひとつの自分への助けとして、ここに真摯に書いているのであって、そういう文章を自分の頭で違うと思えば、読まないにこしたことはない。
これは、あくまでもわたしの書く私自身に対する認識とその認識の方向から見た事実なのです。
それよりも庭の草むしりをすればいいと思えば、そうすればいいし、酒場で自分の礼儀を大事に思えばそうすればいい。
要は、人はいろいろであるし、生きていく覚悟もいろいろだし、死んでいく覚悟もいろいろだということだ。
大事なことをそれを押し付けないことだ。
押し付けようとする人は相手にしないことだ。
両者の対話がそこにないならば、押し付ける側には権力の腐臭がする。
それは、体臭という形をとったり、口臭という形を取ったりするが、いずれにしてもくさい、ものだ。
といかくそんな目にあいながら、しんどい心身の中で、わたしは三つのものを見た。
その続き方が尋常でないので、主治医は心配するし、わけのわからぬ知人は、好意で「気をつけてないといけない」と注意するし、数少ないわたしを思ってくれる人はわたしの体を心配してくれる。
それにしても止めなければならないわたしがこうも繰り返し繰り返し、酒に対する同じ愚をすることへの対抗は、「シアナマイド」、あるいは「ドットピン」という抗酒剤も使いながらの調整も考えなければならないだろう。
しかし、そんな生き方で、生きているといえるのだろうか、そういう疑問が残る。
今回の酒もそれほどでもないと思っていた酒だが、結局はたまに水を飲むだけで、一日を寝込んでしまい、それが治まるころには強烈な鬱が襲ってきた。
それに対し、徐徐に体に栄養を入れ、(最初はサプリメントだが、それから水溶物、おかゆへと移っていく)耐え忍びながら、抗鬱剤「セルシン」「レキソタン」を放り込んでいく。
その抗鬱剤を拒否して抗鬱のために酒を飲み始めれば、見事なアルコール依存症になる。
だから、わたしの場合、この酒飲後の苦しい状態を酒を飲む以外で乗り越えれば、ばら色の現実が待っており、あとは、なんにしろ「最初の一杯」を避け続ければいいだけの話なのであるが、構造がわかっているだけましだが、この一連の連関はおぞましい。
この連関を熟知している人間は、わたしの周りにはいない。
したがって、つまらぬコメントがあちこち飛び込む。
そういう時、自分の持つ人材のなさを思う。
そして、それをこのようなブログに書くとき、そんなものは読みたくはないという御仁がいるが、それは、健全という不健全を生きている人間で、わたしもまた、その人を必要としない。
いつまでたっても平行線だからだ。(その人は、自分の正しさを思うだろうが、これは単なる意見の違いに過ぎない。正しさを思う人間にろくな者はいはしない、イノチガケでもない限り…)
というわけで、わたしは、こういう露悪的で正確な文章を書くことをひとつの自分への助けとして、ここに真摯に書いているのであって、そういう文章を自分の頭で違うと思えば、読まないにこしたことはない。
これは、あくまでもわたしの書く私自身に対する認識とその認識の方向から見た事実なのです。
それよりも庭の草むしりをすればいいと思えば、そうすればいいし、酒場で自分の礼儀を大事に思えばそうすればいい。
要は、人はいろいろであるし、生きていく覚悟もいろいろだし、死んでいく覚悟もいろいろだということだ。
大事なことをそれを押し付けないことだ。
押し付けようとする人は相手にしないことだ。
両者の対話がそこにないならば、押し付ける側には権力の腐臭がする。
それは、体臭という形をとったり、口臭という形を取ったりするが、いずれにしてもくさい、ものだ。
といかくそんな目にあいながら、しんどい心身の中で、わたしは三つのものを見た。
ラベル: 日常
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