弥勒世
1970年のコザ騒動に向けての沖縄がこの本には書かれているが、今の沖縄には、その何もかもが払拭されてしまっているとはわたしには思えない。
「沖縄」という場所は通常リゾート地として理解されているが、少しわかっている人間なら、基地の街としての理解もあるだろうし、沖縄地上戦の悲劇も知っているだろう。
しかし、その具体的なありようは、わたしはこの本を読むまでは知らなかった。
これは、創作であるから、すべて歴史的事実ではないのだろうが、ロマン・ノワールでしか書けなかったのだろう小説になっている。
そこには、「人は何かを信じて生きる」と書いたわたしを裏切る人間が(裏切らざる人間)、描かれ、その人間たちが必死に信じようとするもの、すがりつくものが描かれている。
そして、彼らの思いを沖縄という土地がずたずたにしていくのだ。
「琉球」
そこは薩摩が支配した土地であり、日本が本土を守るために見捨てた土地であり、その後アメリカにいいように陵辱されていく土地であった。「弥勒世」はそのアメリカの陵辱具合と、その陵辱に寄り添い生きていくうちなんちゅーが描かれていく。
そこには想像を絶する、世界が描出される。
そのアメリカからしてブラックとホワイトとの激しい対立があり、うちなんちゅうのなかにはブラザー相手の歓楽街と全軍労の対立があり、もっと戻れば、奄美大島出身者のへの差別があり、宮古出身者への差別があり、あいのこへの差別があり、…すべては構造的に出来上がっている。
ある差別は別の差別を生み出しバランスをとろうとするのだ。
それは、ベトナム戦争時にベトナム人が中部山岳地帯の民族を差別したように単純にアメリカ対ベトナムではないいくつも差別意識が絡み合って出来上がっている。
そのなかで一個の男はどのように生き、その男にほれた一個の女はどのように生きたかがこの本の内容だ。
おとこは「魂(マブイ)」を落とした男であり、その空虚さを破壊によって満たそうとしていた。
女は、その男を愛し、自分の「マブイ」を平和な世界と理想論に託していたのだが、次々と解体されていく。
解体される途中、女の思いが「男のマブイ」を占める瞬間が生じるが、それは永遠には続かない。
永遠に続いてほしいと思うのだが、それをあの当時の沖縄は許さない。
この伊波尚友と照屋仁美の関係、愛憎、恋愛は沖縄に翻弄されていく。
沖縄にとって何の価値もないからだ。
いったいに、祝福される恋愛など、どの世界にあるのだ。
確かに政信やマルコウは二人の愛の成就を願ったが、かなわぬものとも感じていた。
なんだろうな、人が生きていくというのは。
沖縄に興味があれば、読んでみればいい。
沖縄はすばらしい場所でもあこがれる場所でもない。
それより何より、彼らをわれわれが、どのように利用しているかをわれわれ自身が知らなすぎる。
われわれとは、われわれのお国とアメリカがだ。
ちなみに沖縄の性に対する開放的な雰囲気が、そがれていくのは、薩摩が占領して以降だ。
その薩摩侵攻のとき、死んだ沖縄王府の人間は、たったの8人だった。
その8人の死の後、彼らは琉球を薩摩に売ったのだ。
ラベル: 小説
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