2008年8月1日金曜日

ナイロビにて


若いころ、とわたしが言えば大昔のことになるが、ケニアのナイロビで星野芳樹という老人にかわいがられたことがあった。
彼からは、いろいろなことを教えられたし、今はそれらはわたしの中で血肉化している。
当時、彼のことを取り巻きの若い日本人たちは「ムゼー」と呼んでいた。
「ムゼー」というのはスワヒリ語による老人に対する敬称で、少しずれてしまうが日本語で言えば軽みを帯びた「長老」とでもなるだろうか。
わたしはもちろん彼に対して十分なる敬意を抱いていたが、どこか「ムゼー」というコトバの響きに違和感を覚え、「星野さん」と呼んでいた。
(その違和感は今でも続き、先生や師匠と呼ぶことがどうして敬意の表明になるのかがわからない。
だから、以前このブログで取り上げたが、自分に対して「ありがとう」とは何か、「ありがとうございました」と言えといった老人をはっきりと軽蔑し続けている。
くだらん生き方をしてきやがってと。

まあ、そういう人間は多々いるのでことさら彼だけをどうのこうのいう気はないが、星野芳樹はそういう連中とは明らかに一線を画し、毅然とした酒飲みであったし、スケベであった。
いまでも、ナイロビ郊外のあるバーで、「山本クン、あの娘は今夜が始めての娘だ、あいつをくどくといい」とささやいた声を覚えている。

あの声はとても優しく、その若くて純情そうな美しき女は商売女のデビューだったが、そのことに対する何らの評価もなく、ただいい女であるということをわたしに教えてくれていた。

それ以降、わたしがその女がどのような素性であれ、いい女はいい女だと思えるようになったし(そしてそのことは同時に多くの過ちをわたしに冒させたが)、多くの会うはずのないいい女と出会わせてもくれた。

それは、現在言うところとのセレブとはかけ離れていることはいうまでもなく、セレブの要素が彼女の内部で勝っている女の醜さは、腐臭とともにいまのわたしにわかるのは、すべて、あの夜の星野さんのささやき声によってである)

ところで、そのナイロビのころ、ある日本人の家庭に寄宿していたことがある。
そのときわたしを世話してくれた夫妻の妻であった人が写真の中央の人である。

彼女は、もう誰かが書いているのだろうか、考えられぬような紆余曲折を経て今ナイロビの市街地に「マトマイニ・チルドレンズホーム」を運営をしている。
ナイロビからクルマで30分くらい、オンガタロンガイ村に建つ「マトマイニ・チルドレンズホーム」には約20人ほどの孤児が彼女とともに生活している。
彼女が孤児とかかわり始めて約26年経つ。

人の生きることに意味はない。
意味づけるのはあなた自身の作業によることだし、誰かにそれを委ねてもいいし、なにものかの奴隷になり面白おかしいように幻想のなかで生かせてもらってもいい(反吐が出そうだが)、もちろん何も意味付けなくてもいい、それがわたしの人の生に対する見方だ。

人は、己が生と戯れ、そして死んでいく(自死も含め)、それだけのことだ。

しかし、これはその秘に属することのひとつだが、だからこそ「イノチガケ」であることに常に意味が生じてくる。

「人生とはイノチをかけた遊び」
「あちらこちら命がけ」

ともに安吾のコトバですが、人は愉快に生きるのが一番で、そのために死をあまりにも美化し、恐れてはならないというような含意でしょう。

愉快であるためには「イノチガケ」の要素が多少なりとも混じっているものだと、文章で書くわたしの軽率さを許してください。

彼女、菊本照子の元から巣立った孤児の数は多い、そして彼らは、彼女のことを「マゼイ」と呼ぶ。
「マゼイ」とはスワヒリ語で母のことだが、というよりは「母ちゃん」としたほうがいいだろう、まことにもって呼称とその思いが一致したコトバではないか、ケニアの空の下、還暦を過ぎた彼女は、いまも「イノチガケ」で自分の人生と戯れている。
そしてそのことがたくまずして、ケニアの孤児たちとのつながりを産み、ともに戯れ愉快に、自分を、人生を謳歌している。

こういう人の生き方を見ると、頭が下がるばかりである。

「マトマイニ・チルドレンズホーム」の「マトマイニ」とは希望という意味である。

恐れるな。そして僕から離れるな。

そう、思うときがある。

友よ。

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