中流階級
「中流階級」はさほど古い概念ではない。
よく似ているが、「中産階級」、これは古い。
古典的な労働者階級よりは資産があり、自ら資本家になるほどの資産はない階層、これを「中産階級」と呼ぶ( 通俗的にはサラリーマンや金のあまりないホワイトカラーが、そう呼ばれる)。
19世紀の半ば、マルクスは資本主義が発達すればするほど貧富の差が拡大すると予言した。
一方、19世紀末、ドイツ社会民主党のベルンシュタインは、資本主義が発達すればするほど「中産階級」が台頭すると予言した。
このあたりから、「中産階級」という階層が注目されるようになってきた。
さて、日本ではどうか。
日本は、戦後保守政権による政策で中産階級の育成を中心とする日本型社会民主主義政策を取った。
その結果、70~80年代には一億総中流と言われる状況を作った。
個人的に、わたしはこの時代をそれほど悪い時代だと思わない。
しかし、「中産階級」にももっと先へという志向があった。
そして、そのことがある程度可能だった。
ただ、一億総中流に実態があったのかどうかは、いまだ検討の対象とされている。(したがって前述のことについての確証はない。そういう分析が主流だというだけのことだ。これもまた、当たり前のことだが、主流だからといって、正しい保証はどこにもない)
まず「一億総中流」というコトバありきだったのかもしれないこともあるわけだ、プロパガンダとして。
ところで、社会学の立場ではこの「中産階級」を「新中間層」と呼んだ。
マルクス主義では「上層労働者階級」と呼称する。
「上」だ「中」だとわれわれのいる位置をコトバが決めていく。
(そのようにわれわれの位置は意味付けられていく。もともとその場所にはそんな意味はなかったのだ)
「新中間層」は商店主や自作農などという「旧中間層」に対応した用語で、マルクス主義では賃金労働者である点において工場労働者と変わりがないという認識で「遅れた労働者階級」とも呼ぶ。
それが視点とか視座というものであり、この視点や視座によりは何かを見、何かを見えなくしていく。
話が長くなったが、いま言われている「中流階級」概念は、もっと新しい。
「中産階級」の規定には生産手段が大きくかかわるが、「中流階級」には教員、個人投資家、自由業者、法律家などという生産手段や階級闘争に関連しない職業が含まれている。
現在では一般に、多額の資産や巨大な名声を手に入れた経営者・実業家などを富裕層と呼び、そのような企業や活動グループ、つまりは経済的な成功者を人生の「勝ち組」と見ることになっているが、「中流階級」はこの中に入っていない。
逆に、低賃金であったり社会的な地位や信用が低い貧困層、富裕層へのコースから外れた労働者などを「負け組」と呼んでいるが、この中にも「中流階級」は入っていない。
要は、どっちつかずの集合を「中流階級」と呼んでいる。
この新用法に対しては、かつての用法とかけ離れた意味があり、あいまいで、しかもそもそも誰が人生『勝ち』『負け』という基準を決めるのかなどの批判があるが、意外としっかりした定義に思われるところが不思議だ。(ためしに誰かを思い浮かべれば、この三つのカテゴリィに入っていくことがわかるだろう。「中流階級」とは優れて、経験的な用語なのだと思える)
「勝ち組」「負け組」という概念が生まれた要因のひとつとして、日本国内における、いわゆる一億総中流社会の崩壊による収入と消費の二極化の発生があると言われている。(そして、この「勝ち組」「負け組」がなければ「中流階級」は存在しないのだ)
そしてこの事は企業のマーケティング戦略にも大きな影響を及ぼした。
企業は勝ち組向けのビジネスや富裕層市場を拡充させ、トヨタ自動車のレクサスを始めとする高級品や六本木ヒルズ、シオサイト、東京ミッドタウン等を生まれさせた。
一方、負け組向けのビジネスとしては、インターネットカフェ等が作られている。これらの新しいマーケティング戦略の中には成功を収め、多額の利益をもたらした例も数多い。
そして、もちろんのこと「勝ち組」「負け組」という概念が生じたことで差別に結びつくという事態も発生している。
例えば現在、職業において、「勝ち組」「負け組」という言葉が半ば職業差別として機能している一面があるのはご存知だろう(「派遣」という一事を考えてもわかることだ)。
また、職業に限らず、容姿、服装、学歴、趣味…などに同様の差別や偏見が発生しているか、あるいは今後発生する可能性があるのは、テレビや雑誌等のマスメディアを見ていると予感させられる。
というわけで、ようやく話は「格差社会」にたどりつくのだが、ある基準をもって人間社会の構成員を階層化した際に、階層間格差が大きく、階層間の遷移が不能もしくは困難である(つまり社会的地位の変化が困難、社会移動が少なく閉鎖性が強い)状態が存在する社会を「格差社会」と定義するのだろうが、問題のひとつは階層間の流動性が極めて小さくなってきているところだろう。
この流動性は「負け組」から「中流階級」に対してももちろん存在しており、わたしの今回の主張のもっとも大きな点は、この国は「中流階級」をなくそうとしているのではないかという点である。
「中流階級」がなくなれば、さらに流動性がなくなるのは目に見えており、それがいまわれわれの生きている現状ではないかというのがわたしの主張だ。
1998年頃に中流崩壊が話題となり、格差社会論争が注目されるようになったが、この議論では、主として社会的地位、教育、経済の3分野の格差が問題となっている。
前述の日本社会が平等かつ均質で、一億総中流と言われていた時期(高度成長期からその後の安定成長期頃まで)においては、所得面での格差社会が問題になることはなかった。(それは、みんなががんばればある程度金をもらえ、生活できていけ、人々の関係性もあった時代だ)
バブル期には、主に株価や地価の上昇(資産インフレ)を背景として「持てる者」と「持たざる者」との資産面での格差が拡大し、勤労という個人の努力とは無関係に格差が拡大した。
資産が資産を呼ぶ時代では、汗水たらす地道な仕事は疎んぜられる方向も出始めていたのだ。(仕事とはそういうものではないと、したり顔で言う連中もいたが、時代とは生活を変貌させるものなのだった)
その後のバブル崩壊による資産デフレの進行とともに資産面での格差は縮小した。
2000年代に格差社会がテーマとして取り上げられている際は、一定の景気回復を前提とした上で、それほど深刻な問題とはまだとらえられてはいなかった。
マスコミや野党などは、当初、単に格差社会を指摘するものであった。
しかし、この格差は次第に拡大し、世襲化し、手に負えなくなり始めていた。
格差社会を指摘する場合は、他国との比較において日本の格差社会は顕著なものかどうかという視点が取られることが多いが、問題は他国との比較ではなく、この国の中での変貌であり、そのなかで格差拡大が、過去の格差状況とどう違うかの比較が中心的な視点とならなければならない。(それが、この国を考える基本だ。他国との比較考量はその先の話だ)
小泉政権あたりから見てみると、現在、小泉政権以前から存在していた以上の格差が存在するようになったのかどうかは、いまだに議論されている(例えば、小泉内閣(2001年4月26日~2006年9月26日)において、非正規雇用者の増加が進んだと言われることがあるが、統計だけ見れば小泉内閣以前から非正規雇用者は増加している)。
ここで、ざんないことを言ってしまえば、格差の実態を調査するために様々な主体によって様々な統計が取られているが、そしてその結果、格差が存在するか否か、現在どの程度の格差が存在するか、ということはある程度見えるものの、その格差が問題のあるものか否か、階層間の遷移が不能もしくは困難となっているか否か、というような具体的な評価については論者によっても異なり、明確なものとして提出されない。
しかし、大変に困った現状が存在するのは、何冊かの具体的な事実を書いた新書などの著作で明らかである。(調査ではなく、現実が教えているのだ。寒いから冷房温度を上げてくれという現状を言ったときに、「いえ、いまが適正温度です」というのが調査なのかもしれない)
昔は違ったというのが、わたしのこれまでの主張なので、付け加えておきますが、
「大家族で、夫が外で働き、妻は専業主婦として家事をこなす」というモデルが主流であった頃は、以下のような対策を取ることによって社会リスクを回避し、格差を顕在化させなかった。
●収入低下のリスク
家庭の稼ぎ手は夫のため、年功序列制度によって将来の収入増の見通しを立てるとともに、夫が亡くなった 場合は遺族年金などによって収入をカバーしていた。
●老化のリスク
老化し働けなくなった場合は、子供に養ってもらうことによって生活することを前提としていた。
だが、この家庭モデルは、核家族化、離婚増による母子家庭化によって崩れていく。さらに、「社会リスク を回避するためのもの」だった家庭は、変化によって逆に「社会リスクを増幅し、格差を生産するためのも の」へとその役割を変えていった。
格差は、人生の中で主に3つの段階(就職、出産・育児、高齢化)で発生するといわれるが、いままさにそれぞれがおおきな問題にさらされている。
そして「中流階級」がなくなるとき、格差問題にさらに追い込まれるのはわれわれだと思う。
いくつかの方法はあるだろう。
そのひとつは、都市から田舎への人口の逆流であり、東南アジアへの人口の逆流である。
そこで、そこに住む人たちと食べていけ、関係性を構築できるならば、政府はそのことに対する援助を考えていいのではないのだろうか。(たとえば漁民に対しても)
「中流階級」を消滅させて、政府がいかなる世の中をイメージしているのかわたしにはわからない。
長く書いてきたが、田舎での生活(それは政府の援助を含めた田舎の再生化だ)、東南アジアやアフリカでの生活(それは政府の援助を含めた大規模な労働者としての移住だ、棄民ではなく)をわたしは期待している。
わたしは田舎も東南アジアもアフリカもそれほどすばらしい地だとは思えないが、それでも「中流階級」亡き後の日本での生活よりもよいのではないかと思う。
日本にいつまでもしがみつく必要はない。
都会にいつまでもしがみつく必要はない。
少しでもましに生きていきたいものだと本当に思う。
長すぎるブログにて
よく似ているが、「中産階級」、これは古い。
古典的な労働者階級よりは資産があり、自ら資本家になるほどの資産はない階層、これを「中産階級」と呼ぶ( 通俗的にはサラリーマンや金のあまりないホワイトカラーが、そう呼ばれる)。
19世紀の半ば、マルクスは資本主義が発達すればするほど貧富の差が拡大すると予言した。
一方、19世紀末、ドイツ社会民主党のベルンシュタインは、資本主義が発達すればするほど「中産階級」が台頭すると予言した。
このあたりから、「中産階級」という階層が注目されるようになってきた。
さて、日本ではどうか。
日本は、戦後保守政権による政策で中産階級の育成を中心とする日本型社会民主主義政策を取った。
その結果、70~80年代には一億総中流と言われる状況を作った。
個人的に、わたしはこの時代をそれほど悪い時代だと思わない。
しかし、「中産階級」にももっと先へという志向があった。
そして、そのことがある程度可能だった。
ただ、一億総中流に実態があったのかどうかは、いまだ検討の対象とされている。(したがって前述のことについての確証はない。そういう分析が主流だというだけのことだ。これもまた、当たり前のことだが、主流だからといって、正しい保証はどこにもない)
まず「一億総中流」というコトバありきだったのかもしれないこともあるわけだ、プロパガンダとして。
ところで、社会学の立場ではこの「中産階級」を「新中間層」と呼んだ。
マルクス主義では「上層労働者階級」と呼称する。
「上」だ「中」だとわれわれのいる位置をコトバが決めていく。
(そのようにわれわれの位置は意味付けられていく。もともとその場所にはそんな意味はなかったのだ)
「新中間層」は商店主や自作農などという「旧中間層」に対応した用語で、マルクス主義では賃金労働者である点において工場労働者と変わりがないという認識で「遅れた労働者階級」とも呼ぶ。
それが視点とか視座というものであり、この視点や視座によりは何かを見、何かを見えなくしていく。
話が長くなったが、いま言われている「中流階級」概念は、もっと新しい。
「中産階級」の規定には生産手段が大きくかかわるが、「中流階級」には教員、個人投資家、自由業者、法律家などという生産手段や階級闘争に関連しない職業が含まれている。
現在では一般に、多額の資産や巨大な名声を手に入れた経営者・実業家などを富裕層と呼び、そのような企業や活動グループ、つまりは経済的な成功者を人生の「勝ち組」と見ることになっているが、「中流階級」はこの中に入っていない。
逆に、低賃金であったり社会的な地位や信用が低い貧困層、富裕層へのコースから外れた労働者などを「負け組」と呼んでいるが、この中にも「中流階級」は入っていない。
要は、どっちつかずの集合を「中流階級」と呼んでいる。
この新用法に対しては、かつての用法とかけ離れた意味があり、あいまいで、しかもそもそも誰が人生『勝ち』『負け』という基準を決めるのかなどの批判があるが、意外としっかりした定義に思われるところが不思議だ。(ためしに誰かを思い浮かべれば、この三つのカテゴリィに入っていくことがわかるだろう。「中流階級」とは優れて、経験的な用語なのだと思える)
「勝ち組」「負け組」という概念が生まれた要因のひとつとして、日本国内における、いわゆる一億総中流社会の崩壊による収入と消費の二極化の発生があると言われている。(そして、この「勝ち組」「負け組」がなければ「中流階級」は存在しないのだ)
そしてこの事は企業のマーケティング戦略にも大きな影響を及ぼした。
企業は勝ち組向けのビジネスや富裕層市場を拡充させ、トヨタ自動車のレクサスを始めとする高級品や六本木ヒルズ、シオサイト、東京ミッドタウン等を生まれさせた。
一方、負け組向けのビジネスとしては、インターネットカフェ等が作られている。これらの新しいマーケティング戦略の中には成功を収め、多額の利益をもたらした例も数多い。
そして、もちろんのこと「勝ち組」「負け組」という概念が生じたことで差別に結びつくという事態も発生している。
例えば現在、職業において、「勝ち組」「負け組」という言葉が半ば職業差別として機能している一面があるのはご存知だろう(「派遣」という一事を考えてもわかることだ)。
また、職業に限らず、容姿、服装、学歴、趣味…などに同様の差別や偏見が発生しているか、あるいは今後発生する可能性があるのは、テレビや雑誌等のマスメディアを見ていると予感させられる。
というわけで、ようやく話は「格差社会」にたどりつくのだが、ある基準をもって人間社会の構成員を階層化した際に、階層間格差が大きく、階層間の遷移が不能もしくは困難である(つまり社会的地位の変化が困難、社会移動が少なく閉鎖性が強い)状態が存在する社会を「格差社会」と定義するのだろうが、問題のひとつは階層間の流動性が極めて小さくなってきているところだろう。
この流動性は「負け組」から「中流階級」に対してももちろん存在しており、わたしの今回の主張のもっとも大きな点は、この国は「中流階級」をなくそうとしているのではないかという点である。
「中流階級」がなくなれば、さらに流動性がなくなるのは目に見えており、それがいまわれわれの生きている現状ではないかというのがわたしの主張だ。
1998年頃に中流崩壊が話題となり、格差社会論争が注目されるようになったが、この議論では、主として社会的地位、教育、経済の3分野の格差が問題となっている。
前述の日本社会が平等かつ均質で、一億総中流と言われていた時期(高度成長期からその後の安定成長期頃まで)においては、所得面での格差社会が問題になることはなかった。(それは、みんなががんばればある程度金をもらえ、生活できていけ、人々の関係性もあった時代だ)
バブル期には、主に株価や地価の上昇(資産インフレ)を背景として「持てる者」と「持たざる者」との資産面での格差が拡大し、勤労という個人の努力とは無関係に格差が拡大した。
資産が資産を呼ぶ時代では、汗水たらす地道な仕事は疎んぜられる方向も出始めていたのだ。(仕事とはそういうものではないと、したり顔で言う連中もいたが、時代とは生活を変貌させるものなのだった)
その後のバブル崩壊による資産デフレの進行とともに資産面での格差は縮小した。
2000年代に格差社会がテーマとして取り上げられている際は、一定の景気回復を前提とした上で、それほど深刻な問題とはまだとらえられてはいなかった。
マスコミや野党などは、当初、単に格差社会を指摘するものであった。
しかし、この格差は次第に拡大し、世襲化し、手に負えなくなり始めていた。
格差社会を指摘する場合は、他国との比較において日本の格差社会は顕著なものかどうかという視点が取られることが多いが、問題は他国との比較ではなく、この国の中での変貌であり、そのなかで格差拡大が、過去の格差状況とどう違うかの比較が中心的な視点とならなければならない。(それが、この国を考える基本だ。他国との比較考量はその先の話だ)
小泉政権あたりから見てみると、現在、小泉政権以前から存在していた以上の格差が存在するようになったのかどうかは、いまだに議論されている(例えば、小泉内閣(2001年4月26日~2006年9月26日)において、非正規雇用者の増加が進んだと言われることがあるが、統計だけ見れば小泉内閣以前から非正規雇用者は増加している)。
ここで、ざんないことを言ってしまえば、格差の実態を調査するために様々な主体によって様々な統計が取られているが、そしてその結果、格差が存在するか否か、現在どの程度の格差が存在するか、ということはある程度見えるものの、その格差が問題のあるものか否か、階層間の遷移が不能もしくは困難となっているか否か、というような具体的な評価については論者によっても異なり、明確なものとして提出されない。
しかし、大変に困った現状が存在するのは、何冊かの具体的な事実を書いた新書などの著作で明らかである。(調査ではなく、現実が教えているのだ。寒いから冷房温度を上げてくれという現状を言ったときに、「いえ、いまが適正温度です」というのが調査なのかもしれない)
昔は違ったというのが、わたしのこれまでの主張なので、付け加えておきますが、
「大家族で、夫が外で働き、妻は専業主婦として家事をこなす」というモデルが主流であった頃は、以下のような対策を取ることによって社会リスクを回避し、格差を顕在化させなかった。
●収入低下のリスク
家庭の稼ぎ手は夫のため、年功序列制度によって将来の収入増の見通しを立てるとともに、夫が亡くなった 場合は遺族年金などによって収入をカバーしていた。
●老化のリスク
老化し働けなくなった場合は、子供に養ってもらうことによって生活することを前提としていた。
だが、この家庭モデルは、核家族化、離婚増による母子家庭化によって崩れていく。さらに、「社会リスク を回避するためのもの」だった家庭は、変化によって逆に「社会リスクを増幅し、格差を生産するためのも の」へとその役割を変えていった。
格差は、人生の中で主に3つの段階(就職、出産・育児、高齢化)で発生するといわれるが、いままさにそれぞれがおおきな問題にさらされている。
そして「中流階級」がなくなるとき、格差問題にさらに追い込まれるのはわれわれだと思う。
いくつかの方法はあるだろう。
そのひとつは、都市から田舎への人口の逆流であり、東南アジアへの人口の逆流である。
そこで、そこに住む人たちと食べていけ、関係性を構築できるならば、政府はそのことに対する援助を考えていいのではないのだろうか。(たとえば漁民に対しても)
「中流階級」を消滅させて、政府がいかなる世の中をイメージしているのかわたしにはわからない。
長く書いてきたが、田舎での生活(それは政府の援助を含めた田舎の再生化だ)、東南アジアやアフリカでの生活(それは政府の援助を含めた大規模な労働者としての移住だ、棄民ではなく)をわたしは期待している。
わたしは田舎も東南アジアもアフリカもそれほどすばらしい地だとは思えないが、それでも「中流階級」亡き後の日本での生活よりもよいのではないかと思う。
日本にいつまでもしがみつく必要はない。
都会にいつまでもしがみつく必要はない。
少しでもましに生きていきたいものだと本当に思う。
長すぎるブログにて
ラベル: 社会
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