2008年7月25日金曜日

伝わりにくい問題

今回の「誰でもよかった」発言に端を発する無目的な殺人は(それほど無目的=純粋でもないのだが…)、伝わりにくい事件で、殺人者の生い立ちや生活環境に問題を移して彼に同情する立場に立ってみるのがおかしいのはこれは言わずもがなだ。
と同時に、彼自身だけに問題があるとする判断も今までどおりでこの状況を持続する手助けになるだけにしか過ぎない。

ここで被害者の話は外に置かなければならない。
それは被害者の親族や友人が、まったくわれわれとは違う人間だからだ。

これからわたしが書くことは彼ら被害者の「殺してやる」という心情をかもし出すものかもしれない。
しかし、ここに、それを書いておかなければならない。

この一連の無差別殺人を個々の問題と捉えてはならない。
これは確率の問題なのだ。

多くの人間が同じ状況下にいる。ある者は抜け出し、ある者はその場で耐え忍び、ある者は自殺に走り、そしてごくわずかなものが無差別な殺人に走る。
個々に光を当てても何も見えてくることはない。

不幸なるかな、われわれはそういう構造をこの世に持ってしまったのだ。
だからこそ、ある確率でこのような殺人は起こる。

昔殺人は関係性によってもたらされた。(被害者と加害者の)
関係性のないところに殺人は起こらなかった。
クリスティーの「ABC殺人事件」だとしても、それは関係性を中心にしたものだろう。

人が関係性のないものを殺すのは異常なことだ。
それを可能にした大きな要素は、この世の中が、そこに自分とは、なんらの意味もない、関係性もない、ただあるものとして、見知らぬ彼らを存在させてきたからだ。
その人たちは、加害者と関係性を持ち得ない(一部な稀少例を除いて)

あえて言えば、彼らはその関係性のない者の中から、自分とは違うおそらく幸福そうな誰かを殺そうと思ったのだろう。
それが、ここに主張してきて関係性のない殺人の中に残っている、わずかな関係性だ。
殺された彼らは、加害者から見て、わずかに幸福そうだったのだろう。
それが殺される理由か。
そうだ、それが彼らが殺された理由だ。

電車の中で初老の婦人が見知らぬ赤子をあやす。
同じように彼らは、見知らぬ幸福そうに見える誰かを殺す。
同じ程度の発火点だ。

電車の中ではじめて会う初老と赤子の世界に関係性はない。
自分に対して無抵抗な赤子に対して安心感を持って、あやしたに過ぎない。

それとまったく同じことを彼らは刃物を使ってやったに過ぎない。

それをされたわれわれはどうなる。

当事者ではないわたしにはわからない。
悲しげな役者の振りもできない。

なぜなら被害者である彼らはすでにわたしにとっても無関係なものに過ぎないからだ。(それは、テレビを見るあなたで検証してみることだ)

考えてみればいい。
われわれにさほど多くの関係性の糸は張り巡らされていない。
そのようにしてこの社会は進化してきた。

その中での確率として「誰でもよかった」殺人は起こっている。

それは彼の問題ではない。
この社会のスポットの問題でもない。
その確率を高めることを長年してきたあるシステムの問題であろう。

わたしはそう思うし、早く誰かにしっかりとこのことを具体的に語ってもらいたい。

要するにこの種の事件には悲しいという部分が極力少ないのだ。(ごく一部の被害者の周りを除いて)

殺人をそんな他人事にしていく社会がどこにある。
ああ、そうだ、ここにあるのだなあ。

だから、友よ、あなたの関係性を大切にしてほしい。
できれば、恐る恐るでいいから、少しだけ広げていってほしい。

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