2008年7月19日土曜日

人が社会で生きていくときに

人が生きていくときにもやはり通奏低音のようなものが必要で、その音を頼りに他者との関係を結んでいく。
何がしかの共通のグランドを持たない同士がある種の関係が作れるはずはなく、その共通性をいまは先ほどのブログの続きで通奏低音といっているに過ぎない。

共通性はさまざまな形態をとりうるもので、限定されたものではない。
もちろん、あなたが好きというのもその共通なるもののひとつではあるが、これはいたって危なっかしい。
人の好きという感情を維持するにはあまりにもテクニカルな部分が多いからだ。

人は酔っていなければ、人を心から好きになりはしない、というのは、もともと好きという感情そのものに酔いが混じっているからだろう。(酒の酔いだけじゃないからね)

しかし、それでも好きという感情は共通なるもののひとつで長時間ではないにしろ十分に信用に足るものであるのだから、恥ずかしげもなく「好きであること」を頼りに誰かとの関係性を作ればいい。

今ここに書いていることは、共通な部分を何も持たぬもの同士に語らうべき言葉はないというごく単純なことを言っているので、そのようなことは日々おこなわれているのである。

たとえば、あなたが勤めている会社において、会社の存在をある程度認めるというのも立派な共通意識だし、その共通意識をもとにまるで村落共同体のような関係を作ったりしているでしょう。

しかし、組織を持たぬものにとっての共通意識の存在を保証するものは極めて少なく、その場合、人は知らず知らずに自分の周りに組織を作ろうとしたり、組織に入ろうとしたりする。

人は、社会的動物だから、なかなか一人で生ききれないのです。

わたしも、朝起きるたびに消えてなくなりたく思っているのです。

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