2008年7月11日金曜日

人に永く生きる理由などなかった


標題は、もちろんその人物と関係のない誰かに対して書いている。
あなたとなんら関係のない誰かが永く生きる必要などどこにもないではないか。

その永く生きることを正義にしたことがこの地球という船での人類の過ちだ。

たとえば、このわたしが、いつ死のうが悲しむ人はすでにいない。
それは、わたしが何者かと関係性を結んでこなかったせいでもあるが、もともと「永く生きる」ことを正義にすることが不自然だったのだ。

疑うなら、あなたと何の関係もない人が永く生きながらえることを願えるかどうか考えてみればいい。
もし、そのときに、「私はその人の長寿も願う」という答えが出てきたならば、それはあなたが、ひとつの信仰でもあるような「長生きは正義だ」に毒されているからだろう。

言っておくが、母も父もいないわたしの長生きを願う人はいない。(もちろん、あなたは別だ)
わたしでさえわたしの命のながらえを願うことはない。

ときとして早逝した人を傷む文章が本にもなるが、わたしは悲しくもなんともない。
それは個人的な感情だから、個人個人がその個人的な文章に残していく感傷だけに過ぎない。

だからといって、むやみに人を殺す人間を支持するわけではない。
同時にかれらを直接的に攻めることもしない。

かれらは、この社会でこの社会から受けた痛みを身のうちに吸い込んでいるに違いない。
その表出の仕方の違いだと思っている。
で、その表出方法をわたしが支持するかといえば、支持しないのだ。

人は自死する自由はあっても、他者を殺す自由はない。

彼らが人を殺したのは、他者の命を感じとれなくなったからだ。
それは、自分が社会に殺されてしまっているからだろう、というのがわたしの見解で(自分が殺されてしまった人間に他者の命を感じ取る能力はもはやない、それどころかさまざまな生き物に対するさまざまな感情も抉り取られてしまっているだろう)、すでに病んだこの社会は彼らを再生産するに足る状況に入っている。

だから、個人的に、秋葉原殺人のだれかれを攻めたところでこの現象は納まらない。
それは、見方を変えていえば、この社会が産みだした生産物をその不良であることを理由に、その生産物自身が不良であり、その全責任を生産物に負えというのに似ている。

わたしは、精神的な病から、もはや生きている理由を見失っている。
わたしが生きているのは、単に、自死するのを恐れているだけだ。
根性なしのこの性格のために生きている。

昆虫たちは違う。

よく知られるセミは成虫になってから、あっという間に死ぬという。
それは7日間ではないが、それでも1ヶ月はもたないだろう。

カゲロウは吉野弘の「I was born.」を引くまでもなく悲しい。
さらに、あのお蚕さまの成虫には口がないという。
生殖のため、種の保存のためだけに成虫として登場する。
たった一日だけの生命とも聞く。

昆虫のような感覚しか持たないわたしがが、何を好き好んで生きているのだろうか、そういうことを眠れない夜に何度も自問する。

そういう問いの中で、ほんとうに昆虫になればわかるかとも思うことがある。

「人に長く生きる理由などない」とすれば、わたしは何のために永らえているのだろう。

すでに、問題はありながらも、子孫もいるはずなのに。

このことをとてもつらいと書くのは、おこがましいことだろうとわたしは思っている。

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