2008年7月10日木曜日

ひとの恋い願うもの


ひとの恋い願うものは、その時代の社会を牛耳っているもの、それは大きくいえば国家だろうし、その国家と手を取り合う企業や企業の組み立てる消費社会や彼らの広告活動に踊らされる広場のごときものとなるが、そうではなく、もともと人がひそやかに願うものはそうではなかったはずだ。

それをある面から守ったものに家庭、家族というものがあるが、今やその家庭、家族も国や企業に蹂躙され、見る影もない、その多くは。
しかし、それでもその大きな力に反逆するとすれば、われわれに与えられたものは私権しかなく、その私権の守り手としての家族は大切にしたいものだ。

わたしの恋い願うものは、冒頭の小さなベランダに干された洗濯物だ。

いかに小さなその場所であっても、そこに干されたTシャツやカッターやタオルは、陽光に照らされながら、時折吹く風に舞いながらわたしを守る旗頭だ。

もちろんこのような発想は企業にはなく、もっと大きくまとめれば大衆を踊らせようとするこの社会にはない。
なぜなら前述のようなことが願いならば、なんらの消費活動も起こらないからだ。

しかし、基本的な問題を提起だけしておけば、先進国の消費は、ある種の主の出任せをしていかなければこれ以上大きくはならないだろう。
大きくすること自体が、ある種の破滅を呼び込むことを知らなければならないだろう。
それは温暖化対策にしても同じことで、温暖化対策が新たな消費を生む方向に走り出そうとしているのはきわめて危険な兆候である。(この項は新たに書き起こしてみたい)

「人は退化できるか?」
この場合の退化は単なる進歩発展の逆方向と単に思っていただければいい。
それがわたしの思いの大きな部分を占めている。

わたしが掲げた「人の恋い願うもの」というタイトルは、人はもともと発展をこの時代に象徴されるここまで達成することは願ってきていないのではないかという逆説である。

もちろん問題は山積しており、わが家族などはわたしの願うベランダの干し物を拒否してやまないし、何を狂ったことを言っているという顔をする。
それは彼らの問題ではなく、そこまでうまく社会に踊らされている事実が問題であるとするほうがいい。

そうはいっても、わたしは社会の傀儡と成り果てた者たちと生活を共にする気はなく、また彼らを説得する愚も犯したくはない。
踊らされたものは自分が躍らされていることを知らない。
それを知らしめるために、一人の人間のアジテイトに可能性を賭けるのは笑い話だ。

だから悲しいことではあるけれども、言葉が通じなくなった人間をわれわれは捨て去らなければならない。
通じない言葉を使って何が伝わるものか。

ここに問題は残る。
しからば、もう二度と彼らとわれわれは出会えないのか?

そうではないとわたしは思っているが、その道はあなたが想像している以上にはるか遠く、気が遠くなりそうだ。
しかもたどりつく保証はない。

わたしの前には、あの陽光にたなびく白いシーツが旗のようにひらめいている。

あなたの前には何があるのだろうか?

あなたの希うものは何なのだろうか?

あなたは躍らされてはいないだろうか?

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