彼らの「想像の世界」にいるあなた
一時、電車の中で化粧をしたり、べたべたしたり、携帯をしている連中がしきりに批判されていたが、いまはあまり聞かない。
わたしの情報収集力のなさだろうか。
いまだにそのような状況は変わらないはずだから、慣れっこになってしまったのだろうか。
彼らに関しては、彼らの目に映る他の乗客が風景であるのだろうということで一応の決着はついたとわたしは考えているが、議論はさらに進んでいるのだろうか。
あのべたべたしているカップルにとって、二人以外はすべて風景というのは、なかなか辛辣で魅力的な解釈だし、事実だろう。
一人化粧する女にとっても、おそらく待っている男以外は、風景なのだろう。
人は自分の想像の世界でこの世界を形成していくのであって、彼なり彼女の想像の世界に参加していないものは風景であったり、物体であったり、金を振り込む男であったりと、その本人が思っている姿ではない姿で彼らに認識されている。
そして、そのように認識されたあなたの姿は、彼らの想像の世界が変わる以外に変わることはない。
だから、当たり前のことながら、彼らの目に映るあなたの姿も変わることはないのだ。
いまこのブログで、想像の世界といってきたが、「想像の世界」とはいうものの、その人の目の前に広がる世界それ自体が「想像の世界」で、何も意識して想像しているわけではない。
もし意識して想像し、世界を作り上げているのなら、その世界はいくらでも変えられるのだから、少しも恐ろしいものではない。
なんら意識せずに、まったくもって自然にあなたを奴隷のように思う人もいることが恐ろしいのだ。
もちろんそれは奴隷だから恐ろしいのではなく、風景であっても石であっても魚であってもなんであってもいい、あなたが何者であるかを考え、真摯に接してくれないことがままあると言っており、そういう人々と生きていることが恐ろしいと話している。
風景であるあなたの発言が彼らに取り上げられることはなく、彼らとつながる道は果てしなく閉ざされている。
同じように聞こえても、それは風景を人として見ていた時代とは恐ろしくかけ離れている。
その時代であれば、風景に見られたとて、何の問題もなかったであろう。
しかしながら、この時代は、風景とは背景に過ぎず何の個性も持たない(いや、求めない)。
同じように風景と化すべき音楽や映像にも多くの意味を求めないし、意味があることを積極的に嫌う。
つまり、いったん風景として認識されてしまえば、あなたの存在には意味がないのです(意味があってはいけないのです)。
彼らの「想像の世界」にいるあなたに意味はもっとも必要のないものなのです。
だから、あなたが自分に意味を持たそうとするならば、(もちろんこれは客観的などという大それたものではなくほんのわずかな露の雫のような願い事なのですが)、あなたをあなたとして見ようと目を凝らしてくれる人と出会うことです。
わかってくれない人にわかってもらおうとしてはいけない。
相手に見えるあなたは、相手の「想像の中に見えるあなた」に過ぎず、そしてあなたは決してその想像の世界に立ち入ることはできないからです。
人は自分を見つめてくれる人の目線のなかで生きていくしかないような、かよわい生物なのです。
だから彷徨いその目を探すのです。
その目の届く世界で生きようとするのです。
そんな人間は、そのか弱さゆえに、ときに、わがままを言ってもいいのです。
わたしは、あなたに対して、しみじみ、そう思うのです。
わたしの情報収集力のなさだろうか。
いまだにそのような状況は変わらないはずだから、慣れっこになってしまったのだろうか。
彼らに関しては、彼らの目に映る他の乗客が風景であるのだろうということで一応の決着はついたとわたしは考えているが、議論はさらに進んでいるのだろうか。
あのべたべたしているカップルにとって、二人以外はすべて風景というのは、なかなか辛辣で魅力的な解釈だし、事実だろう。
一人化粧する女にとっても、おそらく待っている男以外は、風景なのだろう。
人は自分の想像の世界でこの世界を形成していくのであって、彼なり彼女の想像の世界に参加していないものは風景であったり、物体であったり、金を振り込む男であったりと、その本人が思っている姿ではない姿で彼らに認識されている。
そして、そのように認識されたあなたの姿は、彼らの想像の世界が変わる以外に変わることはない。
だから、当たり前のことながら、彼らの目に映るあなたの姿も変わることはないのだ。
いまこのブログで、想像の世界といってきたが、「想像の世界」とはいうものの、その人の目の前に広がる世界それ自体が「想像の世界」で、何も意識して想像しているわけではない。
もし意識して想像し、世界を作り上げているのなら、その世界はいくらでも変えられるのだから、少しも恐ろしいものではない。
なんら意識せずに、まったくもって自然にあなたを奴隷のように思う人もいることが恐ろしいのだ。
もちろんそれは奴隷だから恐ろしいのではなく、風景であっても石であっても魚であってもなんであってもいい、あなたが何者であるかを考え、真摯に接してくれないことがままあると言っており、そういう人々と生きていることが恐ろしいと話している。
風景であるあなたの発言が彼らに取り上げられることはなく、彼らとつながる道は果てしなく閉ざされている。
同じように聞こえても、それは風景を人として見ていた時代とは恐ろしくかけ離れている。
その時代であれば、風景に見られたとて、何の問題もなかったであろう。
しかしながら、この時代は、風景とは背景に過ぎず何の個性も持たない(いや、求めない)。
同じように風景と化すべき音楽や映像にも多くの意味を求めないし、意味があることを積極的に嫌う。
つまり、いったん風景として認識されてしまえば、あなたの存在には意味がないのです(意味があってはいけないのです)。
彼らの「想像の世界」にいるあなたに意味はもっとも必要のないものなのです。
だから、あなたが自分に意味を持たそうとするならば、(もちろんこれは客観的などという大それたものではなくほんのわずかな露の雫のような願い事なのですが)、あなたをあなたとして見ようと目を凝らしてくれる人と出会うことです。
わかってくれない人にわかってもらおうとしてはいけない。
相手に見えるあなたは、相手の「想像の中に見えるあなた」に過ぎず、そしてあなたは決してその想像の世界に立ち入ることはできないからです。
人は自分を見つめてくれる人の目線のなかで生きていくしかないような、かよわい生物なのです。
だから彷徨いその目を探すのです。
その目の届く世界で生きようとするのです。
そんな人間は、そのか弱さゆえに、ときに、わがままを言ってもいいのです。
わたしは、あなたに対して、しみじみ、そう思うのです。
ラベル: 社会
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