浅川満氏の死
浅川満氏といっても多くの方は知らないのではないだろうか。
太郎次郎社という出版社を遠山啓氏らとともに創業した人だ。
もしかしたら「ひと」という雑誌でご存知の方がおられるかもしれない。
彼の通夜がいま文京区の興善寺会館で行われている。
彼は七夕の日に肺炎で死去したのだが、詳しいことは知らない。
わたしは一時太郎次郎社に在籍していて、彼との親交がある。
しかしながら、通夜にも告別式にも参列しない。
今のわたしには人の死を悼むだけの力がない。
申し訳ないことだと思う。
人の死を悼むと書いたが、実は悼んでいるのはその人の死ではない。
その人との関係性の消失を悼んでいるのである。
だから、ときどき耳にする「あの人はわたしたちの心の中で生きている」というコトバは、すぐれて関係性について語っているのであって、気休めにしか過ぎないものだが、確かに関係性は完全に消失していないと思わせる力がある。
ときに気休めのコトバを人はほしがるもので、それによって大いに助けられたりもする。
わたしと淺川氏の関係性はたしかにあったし、教えられるものもあったが、その関係性の消失を嘆く力が今のわたしにはない。
関係性は支えなければ持続されるものではなく、支えるためには気力がいる。
気力がほぼ萎えてしまっている今のわたしには、他者との関係性を維持するのがとても困難になっている。
そんなときの浅川さんの死であるから、わたしは詫びるしかないのである。
何もこのブログでそのことを表明する必要もないのだが、この場所に書くくらいの力しか持ち合わせていないわたしの方法として許してもらうしかない。
先日も書いたことをさらに書いておくが、人は自己との関係性のない人間の死を悼まない。
もし、悼むように感じたとしたら、それは想像性の中で見知らぬその人との関係性を結んだからだろう。
最近よくある「死に落ち」(主人公が死ぬことがテーマになるもの)の映画で人は泣きはするが、別段悲しんでいるわけではない。
この映画にこんなに悲しんでいる自分に酔っているだけである。
もし、本当に悲しいとしたら、その主人公に重ねられることのできる誰かを身の内にもっている人だろう。
その人の心の中では激しく想像性が荒ぶっていることだろう。
さらに特殊な死である殺人に言及しておけば、ある方向から考えると、殺人には大別して二種類ある。
それは、「関係性の遮断を目的とした殺人」と「なんら関係性のない人間に対する殺人」だ。
「人は自己との関係性のない人間の死を悼まない。」と先ほど書いた。
だから後者の殺人においては積極的な意味合いは少ない。
別に見知らぬ人間が死んだところで、なんら心は動きはしないからだ。
「人を殺してみたかった」とか「むしゃくしゃしたから」とかいうコメントを聞いて呆れ顔で、なにやら話すテレビのなかの人間を見ることがあるが、何も驚くことはない。
関係性のない人間を殺すということは、もともとそんなことで、問題はそういう人間を生み出す構造をこの社会が持ってしまったところにある。(この分析はとても重要で誰かが必死でとりかかっていなければならないことだ)
だから後者の殺人に関して個々の事件をあれこれ具体的に取材しても実りはないだろう。
何せ相手は思いつきにすぎないのだから。
前者の場合は違う。
それは父母を殺すこともあるだろうし、友人を殺すこともあるだろう。
あるいは復習の為の場合もあるだろうし、金を得るためかもしれない。
この殺人は、まさにドラマであり、個々の事件は個々の様相を呈する。
この二種類の殺人を区別せずに論じていても何も進展はしない。
わたしに関してはどちらにしても殺されるのは勘弁してもらいたいが、誰かのために死ぬということには、少し心が動かされる。
いずれにしろ十分に我が心は弱っている。
根性なしということだ。
浅川満氏のご冥福を祈るとともにこの文章を捧げる。
ラベル: 社会
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