2008年7月13日日曜日

人の生に意味はない

意味がない生をひとはなぜ生きるかといえば、生きるように教えられたからだ。
よく自殺が批判されるが、あの批判に正当な理由はない。
ポイントは、批判する人間が生きていることだ。(生きている人間が自分の生を否定する自殺を支持できるわけはないだろう。もしできる人がいたとしたら、その人は信用するに足る)

欠席裁判ではたいていは欠席者が敗北することになっている。

生命が大切だというのは信仰であって、それは生きていくにあたりとても重要な役目をする。
したがってそのような考えを持つことは大切だし、他者を殺すことを罪とする法があることは重要なことである。

しかしながらだ。
人の生に意味がないことも事実だ。
それにもかかわらず、無批判に人々は生きようとするが、その様子を目を凝らしてじっと見ているとそうやって生きている人たちは何ものかを大切にしている。
その何ものかの多くは社会や今までの慣習が用意したものであるが、よくよく考えてみると、ひとが大切なものに殉じて生きるとき、その大切なものは何であってもよいのだ。
多くは、社会が用意した大切なものを自分の大切なものとするが、そして、そうやって生きるほうが生きやすくなっているが、そうでない一部の純粋な人もいる。

純粋な彼らが大切にするそのものは、そのもの自体に必ずしも価値があるわけではない。
彼らが大切にすることによって、そのものに価値は生じるという構造をとる。

たとえば下らぬ女のために生きようとした男にとってその女は価値ある大切なもので、客観的にどう見てもしょうもない女だとしても、それは彼にとって何の意味もないのだ。
その女の価値は、彼が大切に思うことによって生じるのであり、その女自身が持っているものではないからだ。
ま、そうはいってもいい女にこしたことはないのだけどね…

詩を大切に思う人にとって、詩は大切なものだ。
詩を書く行為にたとえ社会的な意味はなくても(実は大いにあるのだが)、彼は詩と付き合うことが生きていくことなのだ。

一匹の猫が大切な人もいれば、富士山の写真をとることが大切な人もいる。
庭の雑草が大切な人もいれば、石楠花が大切な人もいる。

くりかえすが、そのもの自体に価値はなくてもいいのだ。
あなたが大切に思えば、そのものは大切なものであり、そしてその大切なもののために生きていける。

社会が提供する大切なものと一致する必要はどこにもない。(息苦しくはなるけれど)

というわけで「人の生に意味はない」と標題に書いたが、それで終わりというわけではなく、我々は「人の生を意味あるものにすることはできる」。
もちろん意味のないままにもしておけるし、いつでも自死という仕方でおさらばもできる。

まあ、思っているよりわれわれは自由なわけだ。

我が仲間たちには、元気でいてほしい、わたしのために。

そういう思いもわたしには深くある。

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