2008年7月24日木曜日

誰でもよかった

「誰でもよかった」

というキーワードをようやくマスコミもかぎつけたが、特筆すべきことではなかろう。
いまや、すでにある部分では人間関係は完全に消滅し、他者を生き物と見られなくなった人々がこの国にいるという現象は、少し前から実際に起こっている。

それは、まやかしであろうが、あやかしであろうが、ある組織の中や人間関係の中にぬくぬくと(そりゃあまあストレスもあるのだろうが)、働きながら生きる、それでも人間関係が続く連中に見えはしないさ。

本当に他者をなんらの価値もない者として見なければならないほど追い込まれたものは(もちろん追い込まれた側にも十分な責任はあるのだが。もちろんのこと…)人を無目的に殺傷する。

殺傷することが、唯一の生きる証に見えてしまうからだ。(他者ともいえぬ何者かの生の剥奪による自分の生の確証)
殺傷側の家族や殺傷されたその人についてとやかくマスコミは言っているが、犯人にとって、そんなものは知ったことではないのだ。(殺した相手は生き物でもないのだから。本当かどうか向き合えばいい。そうするためには、改心させようなどとはゆめゆめ思わぬことだ。彼らはあなたたちのこの世の中にあっては異物でしかない。そう、高らかに宣言しなさい。揺れ動く弱弱しき犯罪者の隙に、あなたがたの論理を刷り込ませないでほしい。無謀な彼らには、自分の正当性を維持する力などなく、簡単になびき、あなた方に都合のよい自白を始める。そして、それは、おそらく個人的な理由でしかない)

その後、あなたたちは言う。
あいつはおかしかった。(しかし、次々とおかしいやつは登場してくるぞ)

そのように生かされてきたし、生きてきたのが彼らだ。(生きることで、その心に、何かを強く刻印されながら、もちろんそのように刻印された側に問題はないとはいえないだろう。しかし、刻印したのが誰かを舞台に引っ張り出さなければ、ならないだろう。それは個人とは限らない。社会とも限らない。この国自体かもしれないだろう)

この無差別殺人は止まらない。
あなたたちが同じことをし、同じように人の心に刻印し続けるならば。

「警官の血」のことを少し書いた。
あの長めの小説は、昭和23年に始まり、平成19年に終わる。(今手元にないので正確ではないが、そのくらいの話だ)
第一部「清二」、第二部「民雄」、第三部「和也」と分けられたのはその章の主人公である祖父、父、息子だ。あるいは、父、息子、孫である。この関係は小説の中で運動していく。
もちろん彼らには妻がいて、それぞれ「多津」「順子」「氷見由香(実際にこの女は妻にはならない)」という女がいて、それぞれの家庭を守り続ける。
その中にあって、男は働く。

いわば、女性差別の温床のようなものだ。

しかし、第二部に登場する「DV」事件などを読むとき、それを「由香」との違いで読むとき、時代の変化がどのようであったか薄皮一枚を通して出てくる。

わたしが横暴な男かどうかは誰かが判断すればいいのだから、それはわたしの問題ではなく彼らの問題だ。
しかし、わたしの想像力で言えば、わたしは第一部の「清二」に近い男ではなかったかと思う。

そして清二が、この世の中の大多数であれば、この世の中に無差別殺人はおこなわれていないと思う。

それは、そこにはもともと差別に対する特殊な意識が少なかったからだ。(異論は承知で書いている)
ここでいう差別は、あのエタ非人にたいするものではない。(あの制度に関しては、塩見先生に学べばいい)
そうではなく否応なくこの世界を巻き込んでいく差別構造だ。

差別を生きがいとする感性だ。

「誰でもよかった」

人は弱くなれば、この垣根をやすやすと越えていける。
そして、多くの弱い人々をわれわれは作り出してきたのではないか。

この殺人と十年間も続く3万人以上の自殺とがまったく別物だとは思っていないのだろうな?
わたしは、この殺人と自殺の問題を並べて、論じる人が登場し、隠匿された差別感情を持つものが、すべて散り去ってしまえばいいと思っている。

それでも、差別が葬り去ったわれわれの「関係性」を取り戻せるかどうかは定かではない。

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