2008年7月24日木曜日

手紙


先ほどのブログで、そうは書いてはみたものの、ことはそう抽象的でもなく、具体的に進行する。
そこでは、殺人者の自己規制の問題も大きく扱われるし、この世の中の人々がすべて、かれとの関係性を放棄したわけでもない。

しかしながら、厳しい世界だ。(よくよく見てみれば、あなたに見えるならば)
当たり前といえば当たり前だが、自分たちの作ってきたこの当たり前の世界を無反省に受け取るわけにはいかないだろう。

東野圭吾の「手紙」という小説は、追い込まれていった人々が、そこから立ち直ろうとするとき、すでにそれが不可能に近いことを示している。

これは、武島兄弟を通してこの社会の一面を映したものだ。
「強盗殺人」という強烈な異物を日常に入れたとき、人がどう反応するかを映したものだ。

しかし、それほど強烈な異物でなくとも人はすばやく反応するものだ。
自分にとっての「未知のもの」と「異物」にどう反応するかがその人の度量だろうというのがわたしの自説だ。
もし、その力があれば、関係性を作れるかもしれない。(危険ではあっても)

しかし、「未知のもの」と「異物」を自分の中に取り入れるには、自分を一度壊さなければならない(大小の差はあれ…だ)。

そういう人間にお目にかかることはトンとない。
ただ、今まで自分が培ってきたものを(培っていれば十分だが)話すだけの人が多い。

つまりは、それが関係性を作るということで、「未知のもの」や「異物」が、この国で関係性を作るというのは至難の技と言うわけだ。

うん、誰かと酒が飲みたい気分だな。

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