2008年7月29日火曜日

鬱であることの途中経過

わたしのブログを読んでくださっている方ならご承知と思いますが、わたしはかなりの鬱病を患っております。
患っておりますが、救いがございまして、それは酒を飲むと雲散霧消するところにあります。
しかしながら、因果応報、激しく雲散霧消すれば、鬱は、いや増して襲い掛かってくるのです。

鬱については巷間いろいろと解説されておりますが、実際の鬱病持ちとしてここに途中経過を報告しておくことにしましょう。

鬱であることの最も難儀なところは、自己の手から自己が離れるということにあります。
自己の手から自己が離れるというのは、私流に言えば、個人であるところの人の死でありますが、その状態を耐え忍ぶところに鬱の本質があるのではないかと考えております。

ですから、すでにこの社会に媚いって、あるいは扇動され、あるいは、無批判に生きている人間は、すでに個人としては死んでいるわけで、鬱にはなりません。(離れるかもしれない自己をあらかじめ捨ててしまっているのですから)
そして、彼らの多くは鬱病患者を甘ったれたものだとしか感じません。(その本質が見えないからね)

彼らには、この手で自分を抱きしめる感覚がないのです。

鬱病とはこの手に自分を抱きしめたい人間が、自分自身を抱きしめられなくなった状態を言います。
「抱きしめる」とはいささか情緒的な表現で御幣を産みますが、「抱きしめる」ことの本質は肉感的にではなく、自己の生き方をある程度、自分自身の生き方として、実感を持って感じられる、可能ならば調整できることをいっております。

人は、ある程度たくらみ(=思い、計画、悩み…)をもって進まねば、自分の思う方向へ進むことができません。(進む可能性が産み出されません)
考えるに鬱病にとって最もつらいのは、この作業(つまり、自分自身と手を取り合って生きる)ができないこと、つまり、繰り返しになりますが、自己の手から自分が離れているのを眺めていることしかできないところにあります。

そのことが、いらぬ不安や、ひいては絶望をもたらすのではないのだろうかと思います。

酒は、一瞬自己の手に自分が戻ってきたという疑似体験をもたらします。(特殊な酒の席では、それが疑似体験でないことがあり、これはもう至福のときといえましょうか…)

途中経過で申すのもなんですが、とにかく自分自身をしっかりと抱きしめていられない悲しみが鬱病にはあり、その病の経過が順調な折には徐徐に自分が自分の手元に戻ってくる実感があります。

我に我自身を!

すでに、自分を売り渡した人間が多くいるのは、ペーター・シュレミールの昔から。
それが、悲劇とならぬのは今の時代性(時代が自己の放棄を求めているのです)。

鬱であることを悩むことはない。
それはあなたが生きている証拠だ。
鬱である状態に苦しむことはあろうとも鬱を呼び込んでしまったあなたに悩むことはない。
それは、何よりもあなたが生きている証拠だ。

自分の肩をそっと叩くようにこの一文を私自身と、鬱を図らずももってしまったあなたにお贈りします。

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