2008年7月28日月曜日

人は愛することによって愛を得ることがあるものだから…

「もてたい、もてたい」というのはふつうに男や女が願うことだが、ひとは他者を愛することによってしか満たされぬ心というものもあって、それを自覚してしまえば、この世は闇に近くなる。

己の愛が他者に受け入れられることは、もてることの数倍に難しい。
愛が愛として受け入れるためには、無防備という、度し難い障壁があり、こいつがまことに持って厄介なのだ。

したがって、ひとは、子供などというものを作って、その障壁を乗り越えようとするが、こどもが無防備に親の愛を受け入れる期間にはタイムリミットがあり、それを過ぎれば子供は親の愛を無防備には受け入れず、もし、無期限にその愛を子供が受け入れているとしたら、その子供は阿呆だ。

愛を受け入れるには、無防備であり続けるには危険すぎるわなが存在している。

それはさておき、それでもわれわれは「愛することによって愛を得ること」を期待する。
それが愛の第一の秘密であり、
「もてたい、もてたい」と思っていたり、好きな男や女に愛されたいと思っているうちが花なのだ。

いっておくが、「もてたい、もてたい」と思っていて、それで、なんら困ることは一切ない。
だから、そのまま生きていけばいい。(知らぬが仏というではないか、この世の中には一生知らずに過ごしたほうがいいものもある)

ならば、なぜわたしが、このようなものをここに書いているかといえば、それは、単なる「己への自戒」だ。
そして、もしかして、わたしと似たる感性をお持ちの方が読者にいるのではないかという、余計なおせっかいというわけだ。

というわけで、この文章、とても失礼な形をとっております。
お詫びしておきます。

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