2008年8月1日金曜日

内閣改造


ここしばらく内閣改造の分析でマスコミは大賑わいだろうが、それは政治ごっこであって、われわれの生活に直接の影響を与えるものではないだろう。
問題は、「適正人口」と「分業」にあるとわたしは考えている。

この日本は、適正人口をはるかオーバーして成り立っており、その成り立ちはアダム・スミスの指摘した分業をはるかに複雑化した分業システムが支えている。
しかし、残念なことに、いまその分業体制が揺るぎ始めている。
その理由はいろいろとあるのだろうが、目に見えるものを使って端的にいえば原油高だ。

われわれの分業は恐ろしく細分化され「花屋」さんなるものも生み出した。
花を売って暮らしていけるのである。
それはそれですばらしいことだろう。

しかし、一歩退いて考えれば不思議なことである。
われわれの父母の時代に「花屋」なるものはそれほど多く存在はしなかったはずだ。
うちの父は花を育てるのが好きで、家の庭はいつも花が咲いていた。
それもほぼ決まっていて、チューリップ、グラジオラス、バラ、菊、シャクナゲ、クンシラン…といったところだった。
どれも見事な花で、うちの庭先や玄関を飾っていた。(今思えば、とてもやさしい人だったのだろうと思う)

そのころ、どこかに花屋があったということをわたしは記憶していない。

通常花は、華道(生花・盛り花)やフラワーアレンジメント教室用のため用意する。
ほかにイベント向けとして、開店祝いとして、葬儀、パーティー会場、結婚式の花として使われる(ブーケを作ったりもする)。

そういう生活は余裕の産物で、わたしの父母の若かりしあの時代それほどの結婚式も葬儀も頻繁にはなかった。
ましてや家庭や職場に花を飾ることはさらに少なかった。

花は一種の生活の中の贅沢だったのだ。

いま、日本の経済は知らないうちに拡大再生産できなくなってしまっている。
単純再生産はかろうじてできているのだろう。
もちろんどこかの企業にポイントを当てればさまざまな現象をそれぞれに話さなければならないが、全体ではそうなっている。

特に原油高になってからははっきりしていて、花などはハウス栽培をするものだから、とんでもない高値を呼び、花屋が仕入れられなくなっている。(あるときは、卸で通常の10倍の値がついたりしている)
しかも、花は、もともと生活の彩として始まったもので生活必需品ではない。

細分化された分業体制の中、生活にどうしても必要なもの以外は売れなくなる、必要とされなくなる。

まずもって「花屋」がそうだろう。

富裕層が顧客ではない「ちょっと高めのレストラン」も閑古鳥が鳴くだろう。
「飲み屋」もそうだろう。
魚も食べなくなり、肉や牛乳もいまほど必要とはされなくなるだろう。

この時代が貧困をあおり、「中流階級」がいなくなりつつあるならば、必ずそのように進行していく。

ガソリンスタンドがどれくらいつぶれているかご存知だろうか。
お寺が廃業していくスピードをご存知だろうか。
町の魚屋もかなり危なくなっている。
寿司屋だってそうだろう。

どうしても必要なものが何かわたしにはわからないが、たとえば主食となりうる米やパンや麺は残っていくだろう。
その中の最も安いものが。

適正人口をオーバーしていた日本は、それを支えた細分化された分業のもとに生きてきていた。
しかし、適正人口の多くが貧困へと流れていけば、細分化された職業のうち奢侈品を扱う人々は同じように貧困へと流れていく。

貧困は貧困を呼ぶ。

波及効果という。

間違いなく、われわれ貧困層が金を使わなくなるとき、切っていくのは生活の余分な部分、無駄な部分、そしてそれがあることでわれわれの心を和ませた部分からだろう。

その流れを止めるのは、どのような政府でも無理だろう。

わたしがたった一つの可能性として考えるのは、富裕層を切り崩し、彼らの富裕なるものを貧困層に向けてばら撒き、そしてある構想を持って日本を立て直すことを決意することだ。

しかし、歴史上そのようなことは起こらなかったし、起こったのは暴動であり、革命であった。

とにかく、どういう絵図が描かれていようともその絵図には、適正人口へ向かい、死んでいかざるをえない貧困層の存在があるはずだ。
十分な数の人間がいなくなれば、必要なだけの分業体制へと移り、経済はまた回り始める。

しかし、彼らが黙って死んでいくだろうか?
死んでいくかもしれないが、多くの犯罪が起こるかもしれない。
あるいは、そのエネルギーが戦争を欲するかもしれない。

マスコミでは「上げ潮派」とか「増税派」とかしゃべっている。

しかし問題はもっと単純だ。
この日本には(実は地球には)人が多すぎるのだ。
その人を支えた体制が壊れ、いままでの蓄積もすでに馬鹿役人どもが乱費していたとなれば、これは適正な人口に向かって人が死の行進を続けていく以外に方法はないではないか。(あるいはもっと過激な崩壊か?)

後期高齢者の問題が出たときにその底には何があったか?
あなたたちは適正人口に入っていないという宣言だった。

それはさすが政府も口には出せまい。

しかし、薄々彼らも感じている。
漁業は助けられても農業は無理だな、酪農は無理だな、…
個々の商店はどうだ?

すでに崩壊は始まっている。

「内閣改造!?」

いったい、あなたたちはこのような多すぎる人を抱え、その人たちが生きていけるシステムが崩壊しつつある国で何をしようと考えているのか。

はっきりといってしまえばいい。

この国はあまりにも多くの人間を抱えすぎた。
誰かが死んでいかなければ、もうこの国は平衡を保つことができないのだ。

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