2008年8月5日火曜日

書き手という人種

それが、プロであれ、素人であれ、(書いたものによって金を得られるかどうかというほどの差だが)書き手という人種にはその作品に愛情があるもので、編集者からアドバイスを受けることはあるが、勝手に作品にアカを入れられて喜ぶ人はいないだろうと思っていた。(もちろん、基本的な日本語のミスや用字用語の統一は別として)

詐欺罪に問われ、いったん会社をたたむようになった「新風舎」の仕事をやったことがあるが、大きな違和感を持った。
しかしながら、「新風舎」なる会社に染まった人間たちにはそれは常識で違和感を持つわたしが間抜けだと映ったことだろう。
このように間抜け具合は数が決定するところがあるので、数に向かって反抗するのはむなしいことがよくある(ガリレオの昔から)。

「新風舎」が、本を出版する場合、著者原稿を添削していくようにアカを入れていくのである。
通常そういう行為は著者との話し合いの上で進められるため、わたしは最小限のアカを入れていったのだが、「新風舎」にはそれがサボっているように、能力がないように見えたのだろう。
ずいぶんと批判された。

しかし、その文章がいかにわたしの眼鏡にかなわなくとも著者の文章は著者の文章であり、ましてや自費出版や共同出版する原稿にアカを入れていき、いい文章にしてやったなどと、よくぞ編集者が言えたものだ。

彼らが法的に詐欺罪に当たるのかどうかは別にして、本を作るということを知ってはいなかった。
自費出版なら、その人の文章でその人の本を作ってあげればいいではないか。
それならば、自費出版した満足感は残るだろう。(ずいぶん余計に金を取られても)

もし、文章を直してほしいならゴーストライターでも雇えばいい。

自費出版、共同出版を謳うあの業界、いまだにいくつか残っている「文芸社」などがその代表だが、ろくなもんじゃねえ。

自分は、自分の作品を書けばいいのだ。
その結果、どうなるかは自分が引き受けることになる。

それがいい本となれば、こんなに喜ばしいことはないが、だめはだめなりに力にはなる。

早々悪いことばかりが、この世に満ちているわけでもなかろうに。

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