2009年6月29日月曜日

生きるも死ぬも値はしない

V.E.フランクルは、
「Homo patiens(苦悩する人間)の、価値の序列は、Homo faber(道具人)のそれより高い」と言ったが、本当だろうか?

うれしいコトバだが、にわかには信じがたい。
フランクルの見てきた強制収容所の中での真実であって、実社会ではあまり妥当するものではなかろう。

けれども、人が人間的に悩むことを止めたとき、生きる意味に関心を失ったとき、生命力が落ちるのは確かだろう。
残念ながら、今の時代にもこれは当たる。

もし、可能ならば、人は無防備に、生きることの意味を信頼すべきだ。
それこそが、幸せというものだ。

苦悩しなければならない人間は、見なくてもいいものを見てしまったり、知らなくてもいいことを知ろうとしてしまったりの場合であり、それはそもそも不幸なことなのだろう。
まさに、強制収容所に入るようなことだ。

しかし、強制収容所に入ったならば、人間として苦悩し、生きる意味を探る努力は必要になるのだと思う。(今を強制収容所のようにわたしが思っているからに過ぎないかもしれない。このわたしの感じが、あやふやと思えば、「夜と霧」を読んでみてほしい)

けれども、フランクルも知っていたと思う。
生きるも死ぬも値はしないと。

値しないから意味づけする必要が生まれる。

このブログで、何度も繰り返す生きることへの個人的な意味づけは、とても大切なことで、その裏には、もともと生きることになんらの意味がないことを見ている。

だからといって、他人の生きる姿を奪い取るのはよしてくれ。
人を殺すことは、あなたの権利でない。
同じように、その人が自分の生きる意味と思うものをなじるのも、あなたの権利ではない。

それは生きているその人の権利だ。

そのために、法はあり、国家はある。(時にそれらは逆に作用もするが、今のイランのように。いつものアメリカのように)

生きるも死ぬも値はしない。

さて、どうする?

あなたの描くその絵はキミの生きる姿へのよすがとなるのだろうか?
わたしの見る庭の雑草は、生きるよすがとなるか?

とにかく、わたしたちは何か生きることへのよすがを作らなければならない。
(知ってしまったならばだ)

もし、自然に笑いあいながら、生きることへの自覚もなく無防備に森を散歩できないのならばだ。
恋愛は、単に男と女が引き合うのではなく、それが生きることへの無防備な姿となる道への導きだからだ。

そう思えないか?

誰かを愛するあなたには。

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