2011年1月11日火曜日

見るのではない読んでいるのだ

人が自分の目の前にあるものをただ眺めているうちはいい。
眺めているうちはいいが、人がそれに対してある反応をする場合、人は自分の持つ物語に従って、目の前の現象を解釈する。
その人にはその人のものを見る癖があるというわけです。
その癖の大元となるものをここでは物語と呼んでいるのです。

自分の持つ物語をその人がどのように採用したかはその人その人の歴史があり、ばっさりとは言い切れない。
ただ無垢な目ではなく自分の採用した物語にしたがってその人が現前の出来事を解釈し、怒ったり、喜んだり、泣いたり、無視したりするのは事実である。
まあ、そう思っておいて大きな間違いはない。
(このわたしの話自体、わたしの物語による判断です。
 わたしもまた物語から自由ではないのです)

で、この持ってしまった物語ですが、いったん持ってしまうと、ひょいひょいととっかえひっかえできるものではないらしい。
だいたいが自分の保持する物語を自覚している人自体それほど多くはない。
自覚していないものは変えられない。
自分の中の物語の存在を知らないのだから変えようがないわけだ。
そして、さらに始末が悪いことに、多くの人は自覚なく持っている物語を信じきっており、その物語に従って正義を振りかざす。

その正義にわたしなどは何度痛めつけられたことか。
その人の持つ物語、その物語によって解釈された彼の意見は尊重されなければならない。
ところが困ったことにわたしはそれを絶対的なものと見ない。
(もちろん、わたしの持つ物語もだ)
そういうわたしの雰囲気が彼らを刺激する。

実は今日、そういういやな出来事があった。
ひたすら耐えたが、気分はよくない。

だけどねえ、相手は自分の解釈を絶対だと思っているし、その解釈がおかしいと言ったって聞きゃあしないのだ。
おかしくても相手の怒りを聞いているしかない。

ひょっとするとこういうところに争いの原因はあるのかもしれない。
大きく言えば戦争まで。

「見ればわかるのに」と思ってはならない。
相手は自分の持つ物語に従って目の前にあるものを読んでいるのだ。
そして、参ってしまうことに相手は自分がただ見ているだけだと思っているのです。

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