2011年8月14日日曜日

伊集院静氏のエッセイ

伊集院静氏のエッセイとして「大人の流儀」は取り立てるほどのものではなく、なにやら世間に対するご意見が網羅してあって、彼には似つかわしくない気配もある。
それは編集者の希望もあろうし、文章の長さ指定もあることだから致し方なく、だからそれらが大きく取り払われた最後の先妻との別れを書いた部分にわたしの目はひきつけられる。
本当のことを書けば、その他のところはさらりと眺めたに過ぎない。

彼のエッセイなら「あの子のカーネーション」や「神様は風来坊」などにまとめられている週刊文春に連載されていたものの方が数段上で、そのなかには自己否定の気配がはっきりと描き出されていて他者への批判は影をひそめる。
もともと誰かへの批判は、相手がよほどくだらなく当たり前のようにのさばっている場合にこそ発せられるもので、たいていの場合は、それこそそういう奴らはどうでもいい。

わたしなどであっても、あれはクソだなと思う人間を何人か知ってはいるが、どうでもいいと思っている。
クズのことなど頭の片隅に上らせる必要はないので、思うのは敬愛する人やその顔が浮かぶと微笑んでしまったりする人のほうがずっといに決まっている。
もちろんそのような心和ませたり、深々と敬意を示したくなるような人と出会うのはまれだが、そういう人を日々思っていることで、どこかでまた同じ匂いのするそんな人に出会えるかもしれないとその予感に心が疼いたりする。

伊集院氏には、だれかれとなく他者を否定するような感受性の荒いところはなく、むしろ自己否定が強烈に入った体育会系の男と考えたほうがいいだろう。
情に厚く、なぜかしら人に可愛がられ、そういう人たちから多くのものを受け取ったどうしようもない男である。

だから、自分を棚に上げてどうでもいいような他人を声高に批判するのをよしとしない。(そうなんじゃないかな)
だとすれば、「大人の流儀」では最後の吐露のような先妻への思いを綴った部分を読むだけでいいのではないかと思う。

以上のことは別にしてこのエッセイはわりと売れていると聞く。

売れる売れないは、作品の出来とは違う関数によって出来上がっていると考えていいのではないかな。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム