2011年8月2日火曜日

この国では、まず空気が作られる

組織といっては大きすぎれば集団と言い換えてもいいのだが、そういう人の集まりはまず空気を作る。
そういう傾向があるとわたしは思っている。
もっともコレは日本のことで他国のことはよくわからない。

で、この空気を熟成するやいなや空気に殉ぜない人間を組織は奇矯の目を持って見始める。
そこには何の自己内省もなく、ただただ正しさが横行する。

そういう習癖を集団が持っているために空気が読めないなどという言葉も生まれる。
あれは言ってしまえば粛清の言語版である。
それでも人は集団に入りたがるもので、そもそものところ集団の一員をもってして正しい姿とこの国では考えている。
この点に関しては他国も同じようなものだろう。

くりかえしになるが、集団には空気がある。
いったん集団に属してしまえばこの空気に合わせることは至上の命令となる。
何、至上とまで言い切らなくとも、異質な自分らしさを出していればあれやこれやと非難にさらされるからなんとなくいやな気分になる。
挙句の果てはその集団にいづらくなりすたこらさっさと逃げ出すか、自分が自分であることを忘れてしまうかのどちらかになるのがおちである。

集団というのはかように醜悪なものであるが、それでも孤独を嫌がる人間は集団にあこがれる。
集団ではほんの二三人の集まりからでも空気は発生するのでこのことを知っておくのは肝要なことなのだ。

それぞれ個別の集団に対する分析はみなさんにお任せするとして(いやいや大切なことですぞ、お仲間や会社の持つ空気を知っておくということは。その空気は必ずしも正しくはなく、たまたま持ったに過ぎないものですからね)この国のいまやだれでもが知っている原子力発電所に対する態度もおよそ空気の熟成を持って発展を遂げました。
したがって、原発に関してどうのこうのの議論よりも原発を取り巻く空気を変えることの方がずっと脱原発に近づくのに効果的であることは知っておいたほうがいい。

小出裕章先生があの境遇でがんばり続けた功績は、この空気を(原発を推進しようという空気)読めないバカ学者として扱われ続けた中で空気を読まずに己を通したことにある。
そういえば、ついさきごろ会社を辞められたF君の心意気のなかにも会社の空気を読まない自分を信じたところにキリリとしたものが見える。
国や地方レベルまで行かなくても東電からさらに小さな会社にいたるまでさまざまな空気が漂う。
たいていはその組織の中でだけで通用するような薄汚れた空気であるのは経験した聡明なみなさんならよくおわかりのことだろう。

さて、ふたたび原発に話を戻せば、この国が困っているのは、もともと推進するはずの原発を包み込む空気を作り(それは東電や東電の買ったマスコミや学者やはたまた保安院に代表される政府自身がなした所業だが)ここまできたものが、福島の事故で無知蒙昧(おそらくやつらはそう思っていたのだろう)な人々が悲しいかな原発の被災者になることで、脱原発の空気を作り始めたことにある。

この脱原発の空気は日本国だけでなく世界に蔓延し、日本だけを見ても右翼の諸君もデモを起こすほどになってしまった。
最初に述べたが、ことをうまく進行させるためには何より空気作りが大切なのがこの国のあり方であり、今やその空気が変わりつつあるわけで、これは止めようがない。
それでもあれやこれやと手を打ってくるところがやつらの狡猾なところで行き先はまだ確定はしていない。

原発がよろしくないことは理屈の上ではもはや歴然としているのだが、事実を動かすのは理論的な正しさではなく何やらわけのわからぬ空気であって、以上は、ゆめゆめこの空気なるものに油断なさるなということをしたためただけの文章です。

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