2008年10月5日日曜日

ハートがない

ラモスという元サッカー選手がたまにサッカー日本代表選手には「ハートがない」と強く主張することがあるが、素人ながらわたしには奇異に聞こえる。

なぜなら、重要なのはあらゆるスポーツにおいて基本的なテクニックで、そのテクニックの習得の動機にハートは必要だろうが、単なるハートが勝つために最も重要だとは思えないからだ。
勝つために重要なのがハートならば、203高地ももっと早く落とされていただろうし、気合でホームランも打てるだろう。

テクニックの後押しとしてハートは必要だろうが、ハートがテクニックを邪魔することも十分ありうる。
だからこそ、その精神性を説くものは、精神性を研ぎ澄ましテクニックと表裏一体となるようにする。

ハート重視の考えに納得できないのは、テクニックの軽視になるからだ。
テクニックを磨けば、それに前後してハートもついてくるだろうというのがわたしの考えで、精神性、たまには根性という言葉で言い換えられるが、それをいう人間の主張がときどきおかしいと思われるのはハートが直接的にスポーツあるいは広く戦いの勝利にかかわると言うときだ。

もしその勝利と何かの関係があるとしたら、それは勝利ではなくそれを邪魔する敗北にとっての邪悪な考えであるだろう。(サボろうとか騙してやろうとか怠けてやろうとか…)
上等な精神性が忽然と現れて、その精神性が肉体をスムーズに動かし、勝利に結びつける。

そんな馬鹿な話があるものか。

何かに勝利するために必要なものはたくまぬ努力(それは往々にして表向きには馬鹿げた努力に見えるものだが…)とそれを前後して支える精神性(=ハート)で、独立したハートが何かを生み出すことはありえないと思えるのだ。

あくまでも私見だが…

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